主催者談義 小浜逸郎←→佐藤幹夫 往復メール

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 佐藤幹夫  2001/10/29  テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって
 小浜逸郎  2002/1/15  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1-
 小浜逸郎  2002/5/10  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2-
 佐藤幹夫  2002/11/24  最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと

From: 佐藤幹夫
To: 小浜逸郎
Date: 2002/11/24
Subject:

最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと
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「治者の論理」を支えるもの

  いま日朝両国の動きは、膠着状態に入っているのですが、北朝鮮は、「彼ら」の子どもたちの日本への永住を許すでしょうか。それが果たされるとは、北朝鮮にとっては、アメリカの前にひれ伏すことであり、北朝鮮、いや総書記金正日にとっては最も望まない選択のはずです。北朝鮮という国家は維持されるかもしれませんが、政権の座が危うくなるばかりか、クーデターによってその命すら覚束なくなるからです。

  しかしまた、アメリカや韓国と物理的に敵対することは、北朝鮮という国の存続すら危うくすることは見えており、どちらにしても大きな賭けです。したがって、拉致した人々の家族を、易々と戻すようなことは、おそらくありえない。この意味で、帰国した五人の選択も、ワーストかセカンドワーストのどちらかを選ばなくてはならない、そのようなものだったと思います。正常化交渉が物別れに終わったあと、曽我ひとみさんは次のようにコメントしました。

  「日本に来た私を含む五人はきっと同じ思いでこの報道を見ていたと思います。私は頑張る。頑張り抜きます」。

  わたしはこの言葉に激しい衝撃を受けたことを、隠さずに書き留めておきたいと思います。「頑張る」という言葉が、この国において、このような使われ方をしたことを、初めて目の当たりにしたからです。

  かつて水俣病などの国がらみの企業犯罪や、薬害汚染におけるサリドマイド、そして薬害エイズから近くはBSEまで、国家を相手に「頑張る」と、二十年三十年と闘い続けた家族の声は、これまでにも聞く機会はありました。しかし曽我さんの「頑張る」は、それらとはまったく異質のものです。

  ここで再び、理性と情念の複合体としての国家という観点を引き寄せるなら、「家族」もまた理性と情念の複合体です。「家族」の理性は、社会規範や道徳へと向かい、一方の情念は、「家族」の親和性(あるいは憎悪や葛藤)として表現されます。「家族」とは、いわばそれらが統一的に表出されたものの謂いです。夫婦の性愛を横軸とし、世代の交代を縦軸としながら、理性と情緒性による絆をつくっていると言っても同じですが、拉致被害にある家族たちは、自らの「家族」を、ふたつの国家の意志によって貫かれているわけです。

  いささか図式的なもの言いになりますが、それは家族の表現性を、国家の理性そのものとして表明させるほかなくなるような、そうした事態であるということです。家族が家族としての本来のはたらきを奪われ、個体として、国家の意志と直接向き合うことを余儀なくされることです(このことを吉本さんは、おそらく「逆立」と読んだのだと思います)。

  曽我さんの「頑張りぬきます」という言葉は、自分の家族を守り、取り戻すという決意ではあるのですが、それとともに、そこには二つの国家意志(曽我さんの場合には、そこにアメリカが加わり、さらに複雑化するのですが)に貫かれ、どちらに自分の理性(意志)を重ねたとしても、家族が家族であるための親和性と理性が背理に置かれてしまう、それでも曽我さんはどちらかの意志(理性)を選択しなくてはならない、そうした過酷さへの、言葉にはならない(できない)「異議申し立て」の「声」が秘められています。戦後の平和時に生を受け、戦争など無縁のことだと育ってきた自分が、まさかこの国にあって、このような「声」を聞くことになろうとは思わなかった、というのが、わたしの衝撃の内実だったわけです。

  政治の論理は、どのような政治的解決の可能性があるか、制度的補償や、事後の支援システムはどのようになされなくてはならないか。おそらくそのように問うはずです。そしてそこまでです。しかし「被治者」の論理は、「最悪」の戦争のまっただ中に立たされた曽我さんの、この、過酷さへの言葉にはならない(できない)「異議申し立て」を、どう「被治者」の論理として汲み上げることができるか。そうした方向へと進むはずなのです。言わば国家の論理が終わったところから、もう一度、実存の論理へと戻っていかなくてはならない、そのような論理です。

  そしてもうひとつ、「最悪の戦争」を語る「治者」の論理は、このような、家族を引き裂かれながらも、「私は頑張る。頑張り抜きます」という「被治者」の声によってこそ支えられているのだ、いま、そうした事態をわたしたちは目の当たりにしているのだということをお伝えしたかったのです。

  いささか腰砕けの気味の結末ではありますが、「被治者」の論理というわたしのこだわりは、「知的障害」をもつ人々の刑事事件におけるスタンスと、おそらく同型です。社会施策を整えることで彼らの生活の充実と、もう一方、社会の側の安全にも顧慮することの重要性には大いに納得しながら、しかし彼ら自身がどのような実存の条件を背負っているのか。その内在の論理こそ、もっともわたしの明らかにしたいことだと願っている、そのようなスタンスに通じるのだと理解して下されば幸いです。

  「被治者」の論理はいまだ明瞭なものとはならないまま、その重要性だけを差し出すこととなりました。小浜さん(と橋爪さん)の見解に大いに賛同しつつも、しかしそのことだけは、どうしてもお伝えしておきたいと思ったのです。