主催者談義 小浜逸郎←→佐藤幹夫 往復メール

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 佐藤幹夫  2001/10/29  テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって
 小浜逸郎  2002/1/15  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1-
 小浜逸郎  2002/5/10  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2-
 佐藤幹夫  2002/11/24  最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと

From: 佐藤幹夫
To: 小浜逸郎
Date: 2002/11/24
Subject:

最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと
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再び『人はなぜ働かなくてはならないのか』に戻って

  少し問い方を変えてみます。

  これほどまでに実存を規定していながら、しかも論理化しようとしたとたん絶望的な困難さを覚えてしまう情緒性や身体性を、小浜さんは、なぜ論理の言葉として、大いなる意気込みでもって打ちたてようとしておられるのか。それはかねてからのわたしの疑問でした。批判を込めた疑義ということではなく、驚きや畏敬の伴った素朴な問いです。そこには小浜逸郎という実存に固有のモチーフがあり、これはこれでまた語ってみたいことではあるのですが、ここで述べたいことは直接そのことではなく、その問いを契機として導かれたことについてです。

  小浜さんは、「世界連邦国家」とは、機能的な必要性から構想されたものであると断りつつ、次のようにも書かれていました。

つまり、より機能的(理性的)な意味で国家をきちんと立て直すという不断の試みは、それがうまくいくならば、やがて「まともな国家」の像を広く浸透させることにつながり、そのことが、新しい「情念としての国家」像を人々の間に定着させていく帰結を生み出すはずだ、ということです。

  つまりは国家における情念性の問題をどう克服するのかという問いが、小浜さんのなかに伏在していることが分かります。国家における情念の問題は、人間の情緒性がきわめて厄介なように、あるいはそれ以上に大変に厄介な問題です。

  「新しい情念としての国家像」とは、どのようにして可能なのか。小浜さんは、次のように書いています。形而下的なものグローバル化は、異文化は容易には融和し得ないものだという自覚を生みだし、無秩序なカオス状況を作り出す、結果、「各国が相互破壊の泥沼に陥らずに共存を維持するためにはいかなる精神的な秩序についての共通了解をうち立てなくてはならないのかという課題を世界的な規模で強く提起する」と書いている。つまり、わたしたちが鍛えるべくは、何よりも「理性」です。宗教、習慣や習俗などの相互理解や融和が可能であるとするなら、それはあくまでもその結果です。

  そしてこの国家における情念性の克服という問題は、小浜さんがなぜ、人間の身体性や情緒性の問題を解明したいとこだわり続けているのかというモチーフと、おそらく有機的に連動しています。この動機は、国家の課題が「精神的な秩序についての共通了解をうち立てる」ことだという「世界連邦国家」の理念へ向かう動機を、背後で支えています。人間理性への深い信頼と、その一方で抱える情緒性の不条理さへの認識が、小浜逸郎という表現者のなかで共存している。実存の身体性や情緒性の解明へと向かうベクトルと、国家の理性的なものの構築へと向かうベクトルは、向きこそ異なってはいますが、まさに相互規定的に支え合っていると考えられるのです。

  そのことを通して、情緒、身体、理性という視点から、実存と、社会や国家がいかに相互規定的なものかが描き出されている。国家と実存の、相互規定性のなんであるかが描かれていると言ってもよい。それがこの著作の大いなる意義なのだというのが、わたしの『人はなぜ働かなくてはならないのか』に対する理解なのです。

  では相互規定性とは何か。なぜそのことに、わたしは意義を見出したいのか。

  かつて書かれた小浜家族論・子ども論にあっては、家族の成員である親や子どもの実存の論理が見事に掬い上げられており、そしてその実存が「家族」なるものの本性といかに相互的に規定し合っているか、そのような家族論として差し出されていました。そうしたダイナミズム溢れる描写が白眉であり、他の家族論を圧倒しているところだとわたしは受け取ってきました。

  同様に、小浜身体論・情緒論が実存の論理として結実したとき、そこでつかまれた個体存在のあり方は、国家あるいは共同存在としての人間というあり方に、ある彩りを加えるのではないか。言わば「相互規定」というものの内実が、豊かさを伴って描かれることになるのではないか。そのような可能性を見ているわけです。

  さらに言うならば、このことを押し進めるなら、これまでの政治学や社会学から描かれる国家論とはまた異なる、人間学的国家論、実存的国家論とでも言うべきものの構想が開かれてくるのではないか。「新しい情念としての国家」、「世界連邦国家」と差し出されていた「無限の前進」が、離れ小島ではなく、さらに内実をもったものとして描かれるのではないか。

  それがわたしの小浜身体論・情緒論についてのひそかな、そしてやや強引な「読み込み」であり、期待したいところなのです。そしてわたしがこだわるのは、宗教的狂信に支えられたテロリズムが、人間の共同的情念の、おそらく最悪の表現だからです。

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