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| 佐藤幹夫 | 2001/10/29 | テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||||
| 小浜逸郎 | 2002/1/15 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1- | 1 | 2 | 3 | 4 | |||||||
| 小浜逸郎 | 2002/5/10 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2- | 1 | 2 | 3 | ||||||||
| 佐藤幹夫 | 2002/11/24 | 最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |||
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「治者」の論理と「被治者」の論理について わたしは「我われには、テロリストとの妥協はありえない。それがこの戦争であるが、さて君はどちらにつくのか」。これが、いまのわたしたちに差しだされた問いであり、きわめて単純な、二項対立のかたちをしていると書きました。「正義」のありかにおいても疑いのないかたちをしている、とも述べました。正義のありかにおいて疑いのないように見えるのに、なぜこれほどにも論議を呼び、反戦が言われるのでしょうか。 ひとつには、国際社会をアメリカのみが突出して主導することへの危惧があるでしょう。また国内の複雑な経済や政治の状況を、対テロリストとの「新しい戦争」というスローガンのもとに収斂させているが、そうやって、アメリカが強い姿勢を打ち出せば出すほど、世界的緊張を生じさせているのではないか、つまりアメリカの「論理」そのものがテロ行為を生み出すのではないか、という不安と不満。あるいは、ベトナム、中東政策、コソボ紛争、湾岸戦争などのこれまでの歴史において、アメリカこそ国家的規模においてテロリズムをなしてきた当事者であり、テロリストを断罪する権利は一つもないとするチョムスキーなどに代表される反米感情。おおよそそのような「声」が、反戦というかたちでいまアメリカに向けられているわけです。 しかし、こうした反戦、反米の理念には、どこか既視感があります。ベトナム戦争のときにも、湾岸戦争のときにも、反戦の思想が表明されました。六〇年代から七〇年代にかけて「米帝」などという言葉があったように、民衆を搾取し、抑圧すると批判する反米感情の過半は親ソ感情の裏返しか、無辜の人民が殺されるという素朴な嫌悪感、あるいは「駄目なものは駄目だ」という没論理的な反米・反戦の心情をいくらも超えていませんでした。しかしそれが大きな力をもっていたのは、まさにあの時代に固有の力学があればこそでした。 いま反戦の思想は、そこからどれほど進み出ているのでしょうか。わたしは詳しい検討も加えずに言ってしまうのですが、小浜さんと橋爪さんが示された認識のほうが、はるかに反戦に向かう原理として、一歩も二歩も前に出ていると思う。 その説得性を深く承認したうえで、しかし、あえてひと言加えたいことがあります。 わたしたちにいま突きつけられているのは、ベストかベターかではなく、ワーストを選ぶかセカンドワーストを選ぶか、という二者択一なのだということです。むろんお二人とも、ベストの選択であるなどとはひと言も言われていないことは見てきたとおりです。いま求められていることは、よりよい理性を生み出すための不断の努力であり、せめて次善の選択をする努力だ、と明言されている。それを認めたうえでなお、いまおこなわれつつあるテロリストとの「新しい戦争」は最悪の戦争であり、セカンドワーストなのだと、あえて言いたいのです。 さてわたしは例によって、なにやら「こだわり」を抱え込んでいるわけですが、とりあえずそのこだわりを言葉にするなら、以下のようなものになります。 お二人の「戦争」に対する見解には、もう一点、共通することがあります。それは、「治者」の論理として差し出されていることです。しかもきわめて自覚的に選び取られた立場として。治者でないものとして聞いた「私」=被治者は、いわば一個の実存として、それに返す論理はないのだろうか。黙って、なるほどと押し戴くしかないのだろうか。急いでつけ加えますが、わたしは感情的な反戦を言いたいのではありません。 秩序形成に加わる言説者の自覚として、その責任性を明解に解く橋爪さんの議論は大いに納得できるものです。また小浜さんは『人はなぜ働かなくてはならないのか』「第十問 戦争は悪か」において、「知識人が現下の国際問題についてある発言をするときには、『だだっ子』や『傍観者』の位置に立たず、常に責任ある『治者』の立場に立ってものを言え」という入江隆則氏の見解に共感を寄せているのですが、わたしも大いに同意します。責任感覚や当事者性をどこまで繰り込んでいるかが、現在、社会的発言や社会批評をするにあたっての命運であると、小浜さん同様に痛感しています。 そのうえに立ってなお、「戦争」においては、「治者」の論理を受け止める側にも、受け止める側の論理というものがあってもよいのではないか。「新しい戦争」を前にして、「だだっ子」でも「傍観者」でもない、実存の論理を掬い取る「被治者」の論理は不可能なのか。そのような問いだといえるでしょうか。 あるいはまた、「治者」の論理が力をもち、実効性を得るためには、多くの「被治者」に受け止められ、支持されなくてはならず、いわば「被治者」は、支持することによって「治者」の論理を支えることになるのだが、そこに、相互規定的に支えあうような「被治者」の側からの論理はつくれないのか。そのようなこだわりだと言ってもよいのですが、かつてのマルクス主義者のような「支配―被支配」の二項対立を持ち出し、「治者」への批判を込めた対抗の論理を差し出したいのでないことは、ぜひお分かりいただきたいと思います。 すでに感づかれているかもしれませんが、「被治者」の論理とわたしが書くとき、言うまでもなくそこには吉本隆明さんの「大衆の原像」が思い描かれています。「大衆の原像」とは、被治者のある側面を指していう理念であり、治者(吉本さんの文脈では知識人、あるいは政治的知識人ということになりますが)の理念や言説を相対化する原理が内在されていました。言わば吉本さんは、社会批判や国家批判を展開するにあたって、その自らの批判言説を相対化するような理念を、自身の論理に内在させたわけです。吉本国家論が、国家の解体(と大衆の解放)を目指す反国家の論であったからこそ、「大衆の原像」という否定的媒介を内在させることが不可避だった。 小浜さんにあっては(そして橋爪さんも)、反国家の論ではありません。あえて言うならば、むしろ国家の理性を鍛え、普遍理性に到達しようとする、普遍国家論が目指されているのだといえる。そのとき、吉本さんの「大衆の原像」を引き継ぐような、あるいは編み変えるような、「治者」の論理を相互規定的に根拠づけ、また相対化する理路をどう内在させるのか。おおむねそのような問いになります。 |
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