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| 佐藤幹夫 | 2001/10/29 | テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||||
| 小浜逸郎 | 2002/1/15 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1- | 1 | 2 | 3 | 4 | |||||||
| 小浜逸郎 | 2002/5/10 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2- | 1 | 2 | 3 | ||||||||
| 佐藤幹夫 | 2002/11/24 | 最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |||
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戦争と「アメリカ」をどう捉えるか 橋爪大三郎さんはこの単純さについて、次のように述べています。アメリカにおいては、自由を守り、秩序を作り出すことが重要なのであり、アメリカは国際秩序を形成するために、あえて単純化という方法を取っている。このことを批判したり異議申し立てをすることはできる、しかしそれでは秩序を形成する力にはならない、と(『日本人宗教と戦争をどう考えるか』)。 また小浜さんも、前回の返信及び『人はなぜ働かなくてはならないのか』の九問と十問において、アメリカの歴史的経緯に対しては違和を表明しつつも、9・11以降の政治判断と国際社会への協力体制を求めていくあり方には、一定の「成熟」を見ておられます。そしてこの国が、アメリカに追随する以外の選択肢をもっていないことも明言しておられる。 小浜さんと橋爪さんの見解をさらに引かせていただきますが、戦争をどう捉えるかにあって、当事者性、責任性という点からしても、わたしには大変に納得のゆくものでした。 たとえば橋爪さんは、「戦争のスペクトル」というユニークな視点を出しておられます。日本人は殺人というとすべて一律に捉えてしまうが、それは正しくない。西洋近代の国民国家の成立は、より悪質な殺人に対抗するために、より罪の軽い殺人に訴えることは正当であるという論理を生み出した。その結果、「事故(過失)‐正当防衛‐戦争‐自殺‐死刑執行‐殺人(謀殺)‐テロリズム」という罪の大きさによるスペクトルができている。橋爪さんはルターを引きながら、なぜこのようなスペクトルができたか、西洋近代の国民国家が、殺人を否定するキリスト教倫理からどうロジックを転換させ、戦争を否定しないという国家原理をつくることができたか、と説明しておられます。そして今回のテロリストとの「戦争」についても「戦争そのものは悪かもしれないが、大きくみれば、悪を減少させ善を拡大する努力である」とも。 小浜さんは、この見解を繰り込みつつ、戦争が道徳的に「善」か「悪」かは、共同体の置かれた関係のあり方にかかっている、「戦争が普遍的な悪である」という道徳命題が成り立つためには何が必要なのか、というかたちで問いを立てられた。あるいはまた、前回の返信において、今後、構想すべき課題はふたつあり、ひとつは「世界連邦国家」とも言うべき統治システムの具体化であり、もうひとつは、機会の不均等や経済格差に基づく排他性を縮小し、いかに怨磋の暴発を防ぐかである、と述べておられた。そして次のように結論づけていました。
最終の節に置かれたこの件にきたとき、わたしはヘーゲルの「絶対精神」を思い起こしていました。そして小浜さんもおそらくそれを意識されただろうことも。 ヘーゲルにとって、「精神」は意識の原初形態である感覚や知覚から始まり、「絶対知」という最終の形態へといたる弁証法的な運動として構想されています。いわば、自己に閉ざされ、自己中心的な成り立ちをしていた人間の自己意識が、相互的承認関係に入り、そのなかでいかに共同的・理性的な自己となるか。それはまた、「個体」という制約に置かれた人間が、共同性のなかで「自由」を実現してゆく過程でもあるわけですが、ヘーゲルにあって、国家は、その自己意識の場に実現される理性の最高の発展形態として構想されています。それはまたヘーゲルの思い描く歴史であり、東洋史から始まる世界史の進展は、絶対精神として発展していく人間の精神の運動です。 同様に小浜さんの描く国家も、情念と理性の複合による運動態として構想されています。そして「世界連邦国家」とは、「道徳という理性が自然感情となる」ような、理性と情念の止揚された運動の最終の形として提示されています。つまり「世界連邦国家」とは目指される実体という以上に、国家における情念性を克服しようとする、理性の絶えざる前進の運動なのだとわたしは受け取ったわけです。 そして橋爪さんが「戦争のスペクトル」という観点を打ち出し、「戦争そのものは悪かもしれないが、大きくみれば、悪を減少させ善を拡大する努力である」と言われていることもヘーゲル的です。「戦争のスペクトル」という観点自体が、先ほどの「自己意識」の発展のスペクトルを連想させるものです。 いわば橋爪さんは西洋近代国家の成り立ちに内在する論理という、通時的な観点から「戦争」を位置づけられ、小浜さんは、国家と個人の相互的規定性という共時的観点から位置づけられた。わたしはここから、強い補完性を受け取ります。つまり、「われわれ」という社会の側からのまなざしと、「われ」という実存からのまなざしの双方が補い合って、戦争がどのような「悪」なのかということが、わたしたちの前に示されることとなったわけです。 このことを言い換えるなら、これまでは互いの「神」の対立であるような戦争の論理が対立しあうことで言説のパラダイムがつくられていたわけですが、そうしたパラダイムそのものを相対化し、新たな「論理」を打ちたてようとする試みがなされているのだという理解になります。前稿において、わたしはいかに「神」を打ち立てない議論が構想できるか、と書いたのですが、お二人が立てておられるのは、まさに「神」ではなく「理性」であり、そのことに深く納得したわけです。 |
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