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| 佐藤幹夫 | 2001/10/29 | テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||||
| 小浜逸郎 | 2002/1/15 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1- | 1 | 2 | 3 | 4 | |||||||
| 小浜逸郎 | 2002/5/10 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2- | 1 | 2 | 3 | ||||||||
| 佐藤幹夫 | 2002/11/24 | 最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |||
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話がだいぶ気の遠くなるような方向に飛躍してしまいました。軌道修正をして、佐藤さんの「こだわり」に直接答えることにしましょう。佐藤さんは、こうお書きになっています。
弁解めきますが、まず第一に、私の「主体的判断を預けた」物言いが、たとえばイメージ鮮明な保守派との情念のまったき共有をいつもためらわせてきた私自身の揺れのあり方の無意識的な表出であるということ、このことを率直に認めたいと思います。私のこの一見コウモリのような態度には、じつは私なりの含意があります。たとえば、宮台慎司氏などに代表される若いリベラリストたちは、自説の背景として、旧世代に対する自分たちの、状況への感度の敏感さを得意げにちらつかせているわけですが、これに対する感情的反感はともかくとして、少なくともその「感度の中身」については、残念ながら条件付きの是認の構えをとっておくほかないと思えるところがどうしてもあるのです。その点では、先にも述べたとおり、佐藤さんの「倫理的な価値や規範をもった国家観を取り戻すことで、いまの精神の空洞を埋めることができるのか」という疑問とほぼ一致するといってよいと思います。 第二に、「書評」における佐伯氏へのシフトの問題ですが、これも弁解めきます。ひとつは、わずか八百字という限られた紙数であれだけの力作を評する場合、対象に多少の違和感や疑問が残ろうが、むしろ、自分が触発され、共感し、教えられるところが多かった部分についての感想を前面に差し出し、違和感や疑問の部分は控えておいた方がよいというのが、一種の私なりの「礼儀」であり「仁義」であるということです。一行か二行、ちょいと偉ぶって疑問を提出して見せても、それはただ評者の度量の狭さとして感知される可能性が高く、佐伯氏のあの厖大な努力に対して失礼であり、それよりは、共感の提示によって、そのあとに折りあらば、開かれた議論の舞台が設定できる可能性を残しておく方が先決だと判断したしだいです。なお、佐伯氏の「常識人こそ国家の担い手」という表現に対する私自身の疑問は、先に述べたとおりですし、また、同趣旨のより詳しい展開を、近著『人はなぜ働かなくてはならないのか』に記しておきました。 ところで、肝心の佐藤さんのご指摘についてですが、私の考えでは、結論からいえば、機能性の立場に立つか、歴史的・文化的立場に立つかという重点の置き方の問題は、二者択一的な二元論の問題として立てられるべきではなく、あらゆる近代国家が、将来においても、両者の比重の軽重をそれぞれの特性において保ちつつ、機能(理性)と情念との両側面をその本質とせざるを得ない、それが国家という「フィクション」の逃れられない現実であり、運命であろうというふうにまず押さえるべきです。 すると、当然、ではおまえの『なぜ人をーー』における、後者から前者への移行の不可逆性と不可避性という状況判断はどうなるのだという反論が返ってきます。無理なつじつま合わせのように聞こえるかもしれませんが、こういうことではないでしょうか。ヘーゲルを真似ていうなら、ここには、ひとつの弁証法的な理念の運動がはたらいている、あるいは、はたらくはずである、と。つまり、より機能的(理性的)な意味で国家をきちんと立て直すという不断の試みは、それがうまくいくならば、やがて「まともな国家」の像を広く浸透させることにつながり、そのことが、新しい「情念としての国家」像を人々の間に定着させていく帰結を生み出すはずだ、ということです。 先に、道徳の問題に触れましたが、道徳も、カントが証明しようと試みたように、先験的、本性的、絶対的に私たちの心に存在するのではなく、その普遍的な存立の可能性は、国家や国際秩序のまともな成立そのものと不可分の関係に置かれています。共同体をよりよくしようという共通の努力の結実を待って、はじめて私たちは「これこれのこと(たとえば戦争)は、道徳的に悪である」と宣言できる権利と資格を得るのだと考えられます。先の「世界連邦国家」提言に重ね合わせていうなら、「世界連邦国家」が名実ともに私たちの実存にとって生きた共同体としてその姿を顕わす時、ようやく「戦争は法を犯す犯罪である」という普遍的な命題が成り立つのだということになります。それは同時に、ある道徳が、単なる機能的な理性としてではなく、あたかも私たちの自然感情であるかのように、私たちの中に普遍的に「根づいた」ことを意味します。 というわけで、私は、いま、佐藤さんの「突き上げ」に刺激されて、自分の思考の流れに対する一種の「合理化」を行ったわけなのですが、佐藤さんが鋭敏に見抜いているとおり、種を明かせば、じつは、『なぜ人をーー』から、今回の『人はなぜーー』の執筆過程を通して、ある微妙な内的変化を経験したような気がしないでもありません。その変化とは、あえて口に出していうなら(口幅ったいのですが)、状況への誠実な密着だけを売り物にする(それは、同時に、いつまでも腰の据わらないいらだちに終始しがちです)よりは、そろそろ自分なりの理念の構築と提示ということに言説の主軸を移すべきではないのか、という問題意識の芽生えです。佐伯氏の議論が、そのための大きな刺激になったことは隠すまでもありません。 最後に、佐藤さんご自身の提言、「身体と世界をつなぐということは、そこにアクロバティックな論理をかけることではなく、あくまでもその二重性を二重性として深く生きるということに尽きる」という表現に、まったく共感します。このことは同時に、左翼や進歩主義者や世界市民主義者のように「国家とまともに向き合う」ことを回避するのではなく、個々の身体の時間的・空間的限界を超えた国家という共同観念、あの、よいこともすれば巨大な悪もなし得る、危うい両義的な共同観念が、自分という有限な実存にとって何であるのかを不断に問い続け、自分の生の決断のための不可欠な契機としてそれを繰り込むことをも意味すると思います。 以上、佐藤さんの挑発についつい乗って(笑)、あまり柄ではない領域のことについて、妄言を連ねました。これから、いっそう厳しい山越えを覚悟しなくてはならないようですが、ない力を振り絞るつもりですので、よろしくお願いいたしします。 |
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