主催者談義 小浜逸郎←→佐藤幹夫 往復メール

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 佐藤幹夫  2001/10/29  テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって
 小浜逸郎  2002/1/15  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1-
 小浜逸郎  2002/5/10  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2-
 佐藤幹夫  2002/11/24  最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと

From: 小浜逸郎
To: 佐藤幹夫
Date: 2002/1/15
Subject:

Re:テロリズムから始まり
一般意志へ
- 返信1 -
Page:4/4
  

  佐藤さん、だいぶ、お手紙の趣旨から離れた、分不相応な論理を展開してしまいました。ここらで、佐藤さんの文面に即した話題に戻りましょう。

  佐藤さんは、あのテロ事件でまったく新しい世界構造の再編に入ったという感覚と、この「私」という個の感覚との切り離しがたさをつないでいるのは、「危機」という身体感覚であると、まことに簡にして要を得た指摘をされています。そして、その「危機」感覚を、否定的な部分と肯定的な部分にとりあえず二分するかたちで自己分析されていると私は受け取りました。佐藤さんの微妙な言い回しとは多少ずれてしまうかもしれませんが、一つは、外的な刺激に対して過剰な危機意識を抱くこと自体が、ファシズムにまでも至る排他的な狂信性へと人々の共同感覚を駆り立ててゆく、そうした人類の血塗られた歴史を、今回もまた下手をすれば繰り返す結果に結びつくのではないかという点、そしてもう一つは、日本人は、欧米人に比べて、これまでのさまざまな歴史上のいきさつから、公共性や国家の問題をまともに考えることから逃げてこられたが、今度の事件が与えたような危機意識こそは、「自分(たち)の身は自分(たち)で守る」という感覚をきちんと持つためのきっかけをなすのではないか、そしてそれが、そもそも公共性や国家の問題にきちんと向き合うための出発点ではないかという点です。このような理解でよろしいでしょうか。

  これは、私が述べた、「落差を丸ごと抱え込んでしまった」という感覚とまさに呼応するものだと思いますが、率直に言って、前者の指摘については、私が楽観的なせいか、それほどの共感を抱きませんでした。むろん佐藤さん自身も、「いま、ファシズムの危機にある、などといいたいのではない」と留保されているので、この問題については、真っ向から論争するといったかたちでのリングは成立しないのですが、一言だけ付け加えさせていただくと、こういうことになります。

  おっしゃるとおり、私たち普通の国民の一人一人が過剰な危機感情を募らせて、それを何か民意の総体のようなかたちで騒ぐようなことにでもなれば、これはかえって危険です。その意味で、たしかに「何をそんなにお国の危機だと騒ぐのか」という冷めた感覚を維持することは一方で必要なことだと思います。しかし、国民の安全を守る国家の枢要な立場にある人間には、やはり、それ相応の「冷静な危機意識」を持ってもらわねば困るという感じがいたします。そして、そうした枢要な立場にある人間の意義と価値とを、私たち一人一人が、もっときちんと認め、それにふさわしくサポートするのでなくてはなりません。これをやってこないで、社民的知識人や進歩的メディアの扇動する「体制批判」にひたすらうつつを抜かして「国家アレルギー」を作りあげてきたのが、いわゆる「戦後民主主義」の自堕落さであった、そのことの不毛さにおおかたの国民もいま少しずつ気づき始めている。いろいろと批判はあるかもしれませんが、「テロ対策特別措置法」の迅速な成立を果たした小泉政権への支持率が一向に落ちる気配を見せないのも、その一つの現れだろうと思います。

  このことが、佐藤さんの後者の指摘に結びつきます。私は、この後者の指摘にはまったく共感します。期せずして、北朝鮮籍とおぼしき「不審船」の事件がありましたが、海上保安庁の対応は、なかなか毅然としたものでした。そして、あれだけのことができるようになり、しかも世論からさしたる批判を受けなかったのも、やはり少しずつではあれ、国民世論の中心軸が、公共性や国家の問題をある程度自分の問題として考える方向に移動してきたからだと思うのです。

  しかし、他方では、佐藤さんも指摘されているように、「九〇年代に入って『国家意識』なるものがほぼ解体し尽くした」という感知もまた、説得力のあるものです。この感知は、佐藤さんの言われる、「日本人の『危機意識』を骨抜きにしたアメリカの占領政策」の効果もさることながら、それ以上に、七〇年代以降の、日本の高度消費社会化と、世界のグローバル化という、内外両面からの作用が、より若い日本人世代の日常意識を「脱国家化」したというところに主たる理由を求める方が正解ではないでしょうか。というのも、湾岸戦争以降のアメリカの統治者の対日姿勢は、総じて、日本をなくてはならない友邦と位置づけつつ、日本がかえってアジアの安全保障の維持のために国家としての主体的な役割を演じることを期待するところに基本をおいているように思えるからです(本音では大して期待していないのかもしれませんが)。じつは、「戦争放棄」をうたった憲法を押しつけた占領国であるその同じアメリカが、朝鮮戦争という「熱戦」を始めるやいなや、自由主義イデオロギーの傘下に日本を組み込むために、掌を返したように日本に再軍備を要求してきたのも、記憶に新しいところです。当時といまとでは、状況は変わりましたが、東アジアには中国という不気味な大国や、北朝鮮というはなはだ剣呑な国家があり、これらをうまく牽制することが、日本とアメリカの共通利害にかなうことはすぐれて現在的なトピックであると言えます。その意味で、日本の改憲を唯一歓迎するのは、おそらく、自由主義国家の「正義」を前面に押し出して恬然と恥じないあのアメリカでしょう。しかし、一方では、日本の一般大衆は、相変わらず、というよりは、ある意味では、かつてよりもさらに、「水と安全はただ」を決め込んで、のほほんと生きているように見えるわけです。

  この事態への焦燥を隠せない一部の保守派・民族派が、小林よしのり氏の『戦争論』に象徴されるように、特攻隊の美学だの大和魂だの大東亜戦争肯定論だのの無効なアイテムをしきりに繰り出しているのは、よく知られているところです。彼らの危機意識の表出は、いまの日本のおおかたの若い世代の「脱国家意識」の、逆立ちした鏡に他なりません。

  さて佐藤さん、事態はこのように何とも錯綜しているわけなのですが、佐藤さんは、この複雑な事態に対する感知を、戦後日本が空洞化させてしまった「歴史意識」をいかに新たに形成するかという主題に絞り込んでいます。「歴史の欠如は、この国の未来への展望を描くことを困難にする」し、「未来への展望を描けないとき、そこに生きる私たちの生は、きわめて不安定なものになるほか」ない。それは、歴史というものが単なる事実の集積ではなく、共同観念と個の実存意識とが拮抗するところに初めて具体的な、生きた像を結ぶからで、それゆえ、私たちの実存に近づけば近づくほど、いま・ここを生きる私たち自身の生を規定する価値観と不可分のものになってくるからだーー。ざっとこのように佐藤さんは論理展開なさっています。

  この観点に私はまったく同意します。正論中の正論と言うほかありません。ところで、問題は、私たちは、この「正論中の正論」をひっさげて、どのような姿勢で「現在、および未来の生」に立ち向かうのか、その姿勢の微妙なずれを、佐藤さんは、「保守派」や「進歩派」や、ひいては佐伯氏や私のなかに読み込もうとしているように思われます。なかなかうまく応えられないのですが、この第一信の範囲では、とりあえず、次のようにわざと乱暴に自分の「対歴史態度」を言い括っておこうと思います。すなわち、私は、「歴史意識」に呪縛されるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまうのが嫌いなのです。

  幾多の近・現代史にかかわる論争が、常に決着のつかない泥沼になってしまうのはなぜでしょうか。もちろん事実的な資料の多元的なあり方や、それを取り上げて論じる論者たちの政治的価値観などが錯綜するためという理由が考えられますが、理由はそれだけではありません。私が強調したいのは、歴史事実の確定のための議論(たとえば、「日本国民の戦争責任」や「天皇の戦争責任」や「従軍慰安婦の補償問題」)は、それを細部にまで深めていくことによって、なぜ、いかなる動機からそれを行おうとしたのかがしばしば忘れられてしまうということです。

  では、歴史確定の欲求の動機は何か。それは佐藤さんも見抜いているとおり、私たち自身の現在および未来の生へ向かっての決断の条件をいかに形成するかにあります。それは、「保守的連続性」を守り抜くためでも、「進歩的発展」を意味づけるためでもありません。私にとっては、不断に流れる現在と私自身の生(それは、それ自体、私を取り巻くエロス的な関係の一切を含むわけですが)との関係だけが唯一の関心事です。もちろん、たとえ生まれる前の過去であっても、過去がいかなるものであったのかについてできるだけ明確なイメージを持つことは、この唯一の関心事をうまくはこぶことにとって必須条件の意味を持ちますから、その限りで、私もまた私なりに、どういう過去をおのが「歴史=物語」として引き寄せるかという問題に価値を見いだすことは言うまでもありません。

  しかし、佐藤さん、世間の論者たちのなかには、あまりに政治的な「神」や学問的な「神」をそれと知らずに前提としつつ歴史を論じ、そして、その熱い論議に淫するあまり、最も基本的な「歴史を論ずる動機」の問題を忘却している例が多すぎはしないでしょうか。私などは生来怠け者で不勉強なものですから、この種の論議に接すると、つい、「いつまでそんなことをぐちゃぐちゃやっているんだ、ほら、世界は動いているぞ」と言いたくなってくるのを抑えることができません。先の戦争について書かれた書物、論考のたぐいは、まさに汗牛充棟たる観がありますが、「なぜあなたは、先の戦争をそのような仕方で問題にするのか、あなたにとってそれを論ずることは、いま、どういう動機と意味を持つのか」という問いは、けっして自明な答えをもつわけではないにもかかわらず、また、その答えは時代の流れのなかで変容してしかるべきであるにもかかわらず、あまりきちんと行われた試しがないのです。

  拙著『なぜ人を殺してはいけないのか』の「戦争責任」の章も、常々感じていたこうした疑問を表現する一つの試みだったわけです。たったあれだけの小文で、「神」を殺せたかどうかはまことにおぼつかない限りですが、私の体質のしからしむるところでしょうか、自分が生まれる前の過去はしょせん生まれる前の過去、事実関係の存否をめぐるスコラ論争に精力を費やすよりは、むしろ過去に対する現在の私たちの価値意識をどのように確定したらよいかという問いに原理的に答えることをまず優先させるべきだと思ってあれを書きました。

  たしかに私は、佐藤さんの分類どおり、歴史を、「重層性・連続性」に比重をかけるのではなく、「転換性・発展性」に重点を置いてみる人間なのかもしれませんが、いずれにしても重要なことは、そういう分類による解釈で何かが整理づけられるはずだと安心してしまうことではなく、たとえば、あの佐伯氏の大著をいかに読み込み、その上で、いかに真摯な言説を対置するかといった弁証法的な営みを通して、よりよい「公共性や国家についての思想」をともに編み上げていくことでしょう。それが、「国家意識なき国民による国家」という奇妙な矛盾をかかえたこの国の現在に対する、正当な思想的向き合い方だと信じます。

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