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| 佐藤幹夫 | 2001/10/29 | テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||||
| 小浜逸郎 | 2002/1/15 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1- | 1 | 2 | 3 | 4 | |||||||
| 小浜逸郎 | 2002/5/10 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2- | 1 | 2 | 3 | ||||||||
| 佐藤幹夫 | 2002/11/24 | 最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |||
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次に、私の「世界連邦国家」という言明が、コスモポリタニズムとは一線を画するものであることをはっきりさせておきたいと思います。コスモポリタニズムとは、諸民族、諸宗教、諸国家の特性を無視したレベルに、人間共通の「世界市民性」なるものが成り立つはずだという、きわめて能天気な理想に裏付けられた思想であって、私の推理によれば、その底流にあるのは、主唱者たちのまったく個人的な「国家からの逃避願望」にすぎません。この思想は、「おれはたまたま日本に生まれただけで、別に日本人であることを意識しなくても一人の人間として、世界を渡り歩いていけるので、みんながそうなればいいのさ」という、きわめて抽象的な個人主義ないしは個人感情を土台としています。そこには、個人の人格というものが、もともとこの複雑な人間社会の構造が生み出すさまざまな制約の関係を引き受けることにおいてはじめて成立するという自己認識が決定的に欠落しています。ハイパー個人主義者たちは、自分の生存や権利が何によって支えられているかという考察を抜きにして、一気に自分の主観的感情を社会思想に結びつけうるという錯覚に陥っています。その錯覚を支持しているのは、じつは、「家族や社会組織や国家といった中間項は、個の欲望の実現を阻む悪いものである」という粗雑な反体制意識に他なりません。つまりは、かつての心情左翼たちが、社会主義というバックボーンを喪失したことによってたどり着いた、精神の退廃形態にすぎないのです。この理想は、アナーキズムが一番いいように思えるといった、きわめて曖昧なロマンチシズムによって社会を構想するのと変わりません。悪しき文学主義というべきでしょう。 私のいう「世界連邦国家」は、これとは全く違って、いわばもっと機能的な必要という観点から考えられたものです。それは、諸国家の存立を否定しませんし、その利害の衝突や摩擦の必然性をそれとして認めることが前提です。 どんな小さな、閉じた共同社会も、諸個人や諸集団の特殊利害の非妥協的な対立をはらんでいて、それがあればこそ、それらを調整するために超越した権力が必要とされ、その必要性を各人が承認すればこそ、共同体としてのまとまりが根拠をもつわけです。近代以降、それを中心的に担うのが、ルールの体系(国家の場合には法)であり、それを執行する機関(国家の場合には政府)であり、争いや侵害をさばくシステム(国家の場合には法廷)であることはいうまでもありません。 ところで、私たちの形而下的・具体的な生活条件が、かつてないほどにグローバルで、国境を越える交流関係によって支えられるようになってしまったという現実は、だれも否定できないわけですが、このことは同時に、私たちの利害対立がグローバルなかたちで危険にさらされることをも意味します。この危険は、したがって、一国家内部の安全保障体制を越えていることも明らかであり、かつまた、解決困難な国家同士の対立に発展する可能性を常にはらんでいることも明らかです。つまり、そこに、諸国家の特殊意志、特殊利害を前提としつつ、その上に立ってこれを調整していくべき強力な超越機関を立ち上げる必要が生まれてきているわけです。秩序と平和と安定の維持のために「世界連邦国家」が要請されるゆえんです。 具体的に今回のテロ事件を例に取るなら、私は、オサマ・ビンラディンを生け捕りにした上で、アメリカ国内法でこれをさばくのではなく、新たに国際法廷を立ち上げて、そこで処罰する(当然、死刑が妥当でしょう)のが最も賢明なやり方であると考えています。これは現実的にはいろいろなむずかしさを含んでおり、うまくできる確率はかなり低いでしょうが、しかしそれが唯一の理にかなった対処であるという「理念」だけは動かすわけにいきません。 つまり、何か既成の絶対的な「正義」の執行方法があると考えるのでもなく、また、どうせ人間世界に「正義」などはあり得ず、事態は闇にまぎれてまた泥仕合が続くだけだと絶望するのでもなく、こうした新しい必要に基づいた新しい対処の方法を具体的に作りあげていくことを通じて、あくまで理念としてしかない「正義」を、少しでも実現の方向に近づけてゆく努力の過程こそが、ヘーゲルふうに言えば、「人間理性の発展」を証拠立てる唯一の道となるのです。 ところで、それでは、日本への原爆投下に何の公式的反省も示さないアメリカ、ベトナムの内紛にイデオロギー的な建て前から傲然と介入して何の成果も示せずに多くの犠牲者を出したアメリカ、自ら核武装やミサイル開発を強力に押し進めながら、「抑止力」の名の下にそれを合理化し、途上国家の核開発を許さないアメリカ、イスラエルという人工国家やイラクに強力な軍事支援をしてきながら、パレスチナ問題をこじらせ、かつ湾岸戦争に率先して参加したアメリカ、あの身勝手なダブルスタンダードのアメリカに、「正義」を僭称する資格がいったいあるのか、という反論にどう答えるかという問題が残ります。 これは、たしかに、人間社会の問題が、単にアップ・トゥ・デイトな問題をだれがいかにさばくかという問題のみならず、「歴史の怨念と歴史解釈の不一致」をだれがいかに解消するのかという、時間軸に沿った問いと常に不可分に立ち現れるところに発生する難問です。むろん私個人は、少なくともアメリカの原爆投下は、当時の常識に照らしても、戦争は戦闘員同士の対等な戦闘行為に限るべしという国家間の黙契の範囲をはなはだしく逸脱した最大級の犯罪行為であり、日本に対して公式に謝罪すべきだという考えをもっています。また、つくづく、アメリカは力を楯に「正義」を平然と振りかざす国で、反省ということをしない国だとも思っています。 しかし、だからといって、世界を震撼させ、自由世界に大きなダメージを与えたことが明瞭な今回のテロ事件に対して、直接の被害市民を抱えたアメリカが、これをいい反省材料にして、何の積極的行動も起こさずにただひたすら自国民の被害感情や先進国の住民の不安感情をなだめる政策を採るべきだというような論理が成立するでしょうか。「やられたらやり返す」は、まずどこの国民にとっても普遍的な自然感情です。そして、国家がそれを集約して行動を起こす場合、必ず「正義」の建て前を鮮明に掲げなければならないことも、避けるわけにはいきません。 さらに重要なことは、単にすべての先進国のみならず、タリバンのアフガン支配を認めていたあの隣国パキスタンのムシャラフまでもが、苦渋の選択とはいえ、アメリカの「正義」の建て前に同意したという事実です。それこそは力の支配への屈服だという側面もあるでしょうが、果たしてそれだけでしょうか。いやしくも一国の統治者であるならば、この際「長いものには巻かれろ」という決断をすることが、結局は自国の安全の維持につながるというバランス感覚をはたらかせることは当然であろうし、またその打算的な政治選択のなかに、「正義」や「理性」を実現させようとする志向性が一片も見あたらなかったかといえば、そんなことは言えないでしょう。吉田茂をはじめとする戦後の日本の為政者たちも、へっぴり腰ながらに、まさにそれをやり続けることで、何とか平和と繁栄を維持してきたことを忘れてはなりません。 政治とは、その表層を追う限りは所詮、駆け引きと欺瞞の力学であり、結果がすべてですから、その表層の「悪」をあげつらうのみでは、幼稚であるとのそしりを免れません。朝日新聞やニュース23など、そのつど「素朴な民心」に媚びることを本領とするメディアは、誤爆による犠牲者の存在などに過剰な報道エネルギーを注いでいますが、彼らは責任のない立場から「良心的な問題提起」をするだけで、一方では、アメリカの軍事支援がなければ北部同盟が勝利することはあり得ず、北部同盟が勝利しなければ、女性がブルカをはずしたり教育を受けられたりするようにはなり得なかったという因果をどう考えるかについては、まったく口を拭っています。 とはいえ、「歴史の怨念と歴史解釈の不一致」をいかに解消するかは、本当に難問です。ここでもまったく原理的な「理念」のかたちでしか言えないのですが、要するに、一番いいのは、大きな力を保持する国家の行動が引き起こした影響のなにがしかは、必ず他への責任問題をも発生させるのだから、その責任の所在をたえず公式的に明確化しつつ、未来の政治選択にそれを繰り込んで生かしていくということでしょう。テロ事件に絡めて象徴的にいうなら、アメリカは、たとえば原爆投下の悪を認めつつ、こういうことを再び繰り返さないためにも、今度のテロとの闘いは正当化されるべきだという論理を、言葉としてはっきりと打ち出すべきだったでしょう。あの「言葉の国」アメリカが、公式的にはそれをけっしてやろうとしないという事実は大いに批判に値することですし、私たち他国民にとって、そうした批判の目を失わないようなスタンスをとり続けることもまた必要とされるところです。 |
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