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| 佐藤幹夫 | 2001/10/29 | テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | ||||
| 小浜逸郎 | 2002/1/15 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1- | 1 | 2 | 3 | 4 | |||||||
| 小浜逸郎 | 2002/5/10 | Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2- | 1 | 2 | 3 | ||||||||
| 佐藤幹夫 | 2002/11/24 | 最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |||
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ここでひとまず、私がこれまであの事件に触れて唯一公表した2001年11月21日時点での小文を、全文引用させていただきます。 同時多発テロ事件の世界史的意味(月刊『ボイス』2002年1月号掲載) 二〇〇一年九月一一日のワールドトレードセンターへの航空機激突テロ事件は、これまでにないある世界史的な意味を持っている。なるほど被害の規模といった物理的な観点からいえば、日本へのアメリカの原爆投下の比ではないかもしれない。しかし原爆投下は、あくまでもすでに行われていた日米全面戦争という過程の延長上で行われた戦闘行為であり、その意味では、主権国家同士の対立という、「近代戦争」の枠内に位置づけられる事象である。これに対して、今回のテロ事件は、平和と秩序がそれなりに保たれていると先進諸国家の住民が少なくとも信じていた、その均衡感覚そのものを直撃した。 私たちは、冷戦構造解体以後の、政治、軍事、経済すべての面におけるアメリカのリーダーシップに対して、異なる文化圏における貧困と混乱の場所から立ち上がる怨嗟の感情がいかに奥深く蓄積されたままになっていたかを知らされたのである。このことはしかし、先進諸国家の「自由と豊かさ」の理念が間違っていたことをいささかも意味するものではない。 国際社会が直面している新しい世界史的な局面とは、どの国家をも巻き込むグローバリゼーションの巨大な波が、一つの主権国家の閉ざされた国益追求や防衛意志や外交努力のシステムにだけ目を注いでいたのではとうてい処理できない規模のものに広がってしまったという事実である。この先は、おそらくもうない。その意味で、今回のテロ事件は、グローバリゼーションが行き着くところまで展開された事態を、その悪しき側面においてもっとも象徴するものであった。 他方で、世界の人々は、あちこちで大国的な括り方に対する違和感をあらわにし、自分たちのアイデンティティや利害感情の共有を小さな帰属圏に求めようともしている。つまり人、物、金、情報のグローバリゼーションと、小国、小民族への分離独立の志向とは、同時進行しているのだ。その一見乗り越えがたい二重性が世界の現在である。しかし、というよりも、それだからこそ、国際社会は、新しい歴史的段階に対する新しい構えを要請されていると考えるべきだ。 いささか早とちりを覚悟の上でいうなら、私たち人類は、いま、秩序の多元化と諸秩序間の不可避的な交流(衝突)という現実を目の前にして、いよいよ「世界連邦国家」ともいうべき統治システムを具体的に構想しなくてはならない段階の端緒についているのである。 もちろん今回の同時多発テロとそれ以後現在に至るまでのアフガン情勢の展開とは、長い目で見れば、それ自体としては瞬間的な事変のたぐいで終わってしまうかもしれない。だが、ここで仮に一時的な平穏が獲得されたとしても、今回の一連の過程が指し示している問題の本質だけは、今後数百年のスケールで人類自身への問いかけをやめないに違いない。そしてこの問いーーいかに「世界連邦国家」の統治を創出するかーーの解決の方向は、当面、唯一の超大国であるアメリカを中心とした、先進有力国家の知恵と理性にかかっているといってよい。 この課題は、観念的な平和論や、怨嗟に基づく情緒的な平等論、報復合理化論ではけっして解決できない。豊かさと貧困の格差を下向きに引きずりおろすのではなく、人類の一部が手にしえた「自由と豊かさ」をより多くの人々の手にもたらしうるにはどうすればよいかを具体的に考えることだけが重要なのである。 これに加えて、私たちは、それぞれの人間が抱きうる共感の限界ということをよくわきまえておかなくてはならない。誤解を恐れずに率直に告白するが、私は、テロ事件のわずか三日後にワシントンのチャーチで行われた追悼式で、ムスリム、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教の各代表たちが勢揃いして、哀悼の意と困難克服への強い決意を表明するのをCNNで見たとき思わず落涙してしまったのに、アフガン難民たちの映像を何度見せられても、それほど強い同情の念がわき起こらなかった。私の個人感情のあり方を普遍化することはできないが、あまりに生活状態や文化様式が異なると、おのずからの共感なるものがなかなか生じにくいことはたしかであろう。 また、メディアでこれだけ一連の事件が報道されていても、私たちの身のまわりには相変わらず普通の人が普通に生活しており、自分に直接関係のある日常の些事に関心をくだいている。あの事件の社会的な大きさ、今後の影響力の計り知れなさなどについての認識と、個々人の生活感覚との落差を意識の上で埋めることもほとんど不可能なのである。 私たち人間は、これからも客観世界についての認識とそのつどの実存感覚との途方もない落差をおのれの耳目に背負いつつ生きるほかないであろう。感情と理性との平衡を常に心がけなければならないゆえんである。 佐藤さん、いや、佐藤さんのみならず、これを読んだ人たちは、私がここで呈示した「世界連邦国家」というアイデアに、ある種の唐突感と、温度差の感覚とを禁じ得なかったかもしれません。そんなことがプログラムに上るほど、いまの世界情勢(国家間、民族間、宗教間の対立や、経済格差の存在)は甘くないという感想もあるでしょうし、これは、単なる世界市民理念(コスモポリタニズム)の延長上に描かれた観念的な構想にすぎないのではないか、といった批判もあり得ると思います。また、おまえはイギリスから受け継いだアメリカ覇権主義が何をしてきたかを考慮に入れているのかといった口吻も予想されるところです。そこで、この限られた枚数では言い足りなかった部分について、解説と補足を試みることにします。 近代主権国家が、好むと好まざるとにかかわらず、自由競争原理を基本とする資本主義という「下部構造」の力に巻き込まれながら、その上にそれぞれの地域的な歴史や伝統の特性(人種、民族、言語、生活習慣、宗教など)に基づいた共同体的な「まとまり」としての主権の枠組みを敷いていることは、今さら指摘するまでもありません。今のところ、この二重構造がもたらす矛盾や摩擦や紛争をすっきりと乗り越えるうまい方法は見あたらないと言ってよいでしょう。それは、かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』ではないですが、国際連合の無力ぶりが象徴的に示していると言えます。 しかし、新しい世界情勢として、次のことだけは確実です。第一に、社会主義や共産主義の理念が、政治体制として現実化するとき、それは、真の意味での資本主義への思想的な対決、あるいは止揚の方向の指示としては現れず、そこに必ず主権国家の特殊利害が癒着するために、実際には、近代化に後れをとった国家が抱えるルサンチマンの吸収・発散装置として機能してしまうこと、そして第二に、そうした苦い現実を私たちはすでにいやというほどかみしめており、その失敗の感覚が解決の方向を見出せないかぎりは、怨嗟の感情を丸出しにしたテロリズムという追いつめられた絶望的なあり方が現象せざるを得ないということ。つまり、テロリズムの世界化は、明らかに社会主義や共産主義の失敗と裏腹の関係として連続しており、今回のような事件になることは、「世界史の進行」として実は下地があったわけです(最もこれはあくまで事後的な認識であって、私もまた、何もわかっていたわけではなく、佐藤さんと同じように「太平の眠りを覚まされた」ことに違いはありません)。 そこで、課題は当然、二つの方向に絞られます。私などの素人が改めて言う必要もないとっくにわかっている月並みなことですが、一つは、国家の特殊利害の衝突を調整するための超越的な機関を、いかに軍事力も含めた実力を背景として創出するか。そしてもう一つは、現実にある極端な機会の不均等や経済格差や閉ざされた価値感情に基づく排他性をいかに縮小して、怨嗟の爆発の防止に役立てるか。いずれの場合にも、資本主義的な世界市場原理(不可避的なグローバリゼーション)を既定の現実として承認することが前提です。この二つの原理以外に、現在の矛盾の世界化を切り抜ける方法は見あたりません。 私が、今回、アフガンの暫定政権が成立するまでの過程において、軍事面のみならず、外向、情報交換、経済支援策など、アメリカを中心とした先進諸国家がとったさまざまな政治的決断(日本政府の対応も含めて)を、おおむね是とするのは、それが、条件付きながら、この二つの方向への萌芽形態をかいま見せていると判断したからです。それ以外のローカルな同情や反感の上に立った論議は、所詮、国際的な力と責任とを表裏一体の関係として担う先進諸国家の現在のあり方に対する現実的な想像力を欠いた「ぶつぶつとしたおしゃべり」にすぎません。 アメリカの軍事行動が、単なるテロ報復のためか、国際正義なるものの擁立と執行のためのものであるか、その判断は微妙ですが、要するに、ブッシュの個人感情がどうあれ、また、アメリカ国民の単純な結束への違和感がどうあれ、客観的に見て、今回の動きは、報復と国際正義の擁立への志向との両義性をはらんでいたと見るのが正確なところでしょう。そして、イギリスのブレアーを中心としたその精力的でスピーディな外交努力と、攻撃目標をなるべく限定するアメリカのハイテク軍事技術の行使とにおいて、今回のアメリカ、およびアメリカの側に「ショウ・ザ・フラッグ」した国家群の協力体制のあり方のなかに、戦後国際政治の一定の成熟を見る、というのが私の判断です。もちろんまた、アラブ諸国が力説する、「パレスチナ問題の解決なくしてテロの撲滅はあり得ない」という認識も、これからの重い課題として尊重されるべきことは言うまでもありません。いずれにせよ、これらの複雑な国際的絡まりへの対応の努力なかに、そろそろ国際秩序と諸国民の安全を維持していくための「世界連邦国家」なるものを日程に乗せるべきだという一般的感知がほの見えていることを、唯一の「希望」として確認しておきたいと思います。 そして、もう一つ重要な視点を指摘するなら、国際社会において力を持つ国家群こそが、それぞれの立場にしたがってそれ相応の責任を行使する義務もまた有するという現実的な判断が何よりも優先されるべきだということです。180の大国、小国が対等に話し合って「国際平和」を実現するという国連の理念の観念性は、この現実的な判断との関係において、再考されてしかるべきでしょう。これは、別に国連を否定するということではなく、それぞれの役割と限界を見極めつつ、新しい連係プレーのかたちを再編成すべきだということです。現に、タリバン崩壊後の秩序回復のための多国籍軍の編成にアメリカが参入を遠慮したわけですが、この対応は、被害当時者国がその感情的動機を過度に反映させるのは避けるべきだという意味で、賢明なものだったと思われます。 |
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