主催者談義 小浜逸郎←→佐藤幹夫 往復メール

[目次(トップページ)に戻る]
差出人
日付
件名
 佐藤幹夫  2001/10/29  テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって
 小浜逸郎  2002/1/15  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1-
 小浜逸郎  2002/5/10  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2-
 佐藤幹夫  2002/11/24  最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと

From: 佐藤幹夫
To: 小浜逸郎
Date: 2001/10/29
Subject:

テロリズムから始まり
一般意志へ

佐伯啓思
『国家についての考察』
をめぐって
Page:5/7
  

5.ルソーは専制主義者か

  ところで、なにが国家を支えているのかについて答える前に、佐伯さんは、この外在的・機能的国家観は、ホッブズ、ロック、ルソーの社会契約論にその思想的出自を持つとされ、俎上にのせられるのですが、ここで、「専制的全体主義者ルソー」という驚くべき像が打ち出されることになります。

  佐伯さんは、ルソーの「一般意志」をして、次のように書いています。

  《いうまでもなくここで問題なのは「一般意志」の観念であろう。「自然法」や「自然権」あるいは「神」といった超越的なものをいっさい前提としない論理の中で、社会契約を可能とするためには何かそのような観念が不可欠であった。これはほとんど論理の必然である。だが、それがロジックを離れて実際にこの世界で具体的な姿へと移しかえられるときには、おそるべき専制もしくは全体主義に転化することもまた明らかであろう。ここに、共和主義と民主主義の根底的理論家ルソーが、また同時に全体主義の理論家でもあるという逆説が成立する。》

  わたしにとって「一般意志」の理解は厄介なものですが、しかし「社会契約論」をどう読んでも、「おそるべき専制もしくは全体主義に転化」はしないのです。専制となる一般意志とは、もはや一般意志とは呼べない特殊な共同意志です。共同意志・特殊意志等の用語で説明を試みていることを虚心に読むならば、「一般意志」をどのようにして専制的な共同意志となることから防ぐか、そのことを説いているように、わたしは読めるのです。

  「実際にこの世界で具体的な姿に移し変えられるとき」と、佐伯さんは書いているのですが、そこには飛躍がある。一般意志とは抽象的な原理のはずです。佐伯さん自身、抽象的な概念であるとしながら、それを一気に取り外し、「具体的な姿」に実体化する、やはりこれはアンフェアなのではないかという疑念を持ってしまいます。

  佐伯さんはまた次のように続けます。

  《実際、国家共同体が集団的な防衛を目的とするという理解が古代ギリシャ以来の流れであることは論をまたないのであって、国家とは何よりもまず「共同防衛体」にほかならない。とすれば、一般意志の具体的な一つの表れは、国家の共同防衛ということになろう。》

  《国民国家(ネーション・ステート)とは、何よりもまず、すべての国民=市民が国家の防衛という基本的な一点で平等化され対等なものとして扱われる国家なのである。国家への絶対的な服従が、同時に自発的な自由の表現であるという、このアクロバティックな表現を可能とするものがあの「一般意志」の概念であり、人は、一般意志の命じるところには絶対に従わねばならないという命題である。そうでなければ社会契約は完結しないのだ。》

  先の引用と重ねられ、ここにおいて、「専制的軍国主義者・ルソー」という像が結ばれることになります。しかし戦争に明け暮れ、「平和憲法」などなかった時代、ルソーにとって国防の義務などは言うも愚かな、自明のことでしょう。いわばルソーの論理の、極点と極点を結んで虚像を差し出している、どうしてもそんな印象を受けるのです。たとえば合衆国アメリカは「民主主義と自由」を守るために、国民は自らの身体を国に差し出しますが、しかしアメリカを全体主義国家とは、だれも言わないでしょう。なぜならアメリカにおいて「国防の義務」は、合衆国憲法の元に「一般意志」となりえているからにほかなりません。もしそれに反対する声が多数派となり、しかるべく手続きによって合衆国憲法が改正されるなら、「国防の義務」は廃棄されることになる。それが「一般意志」たるゆえんです。専制というのは、それに反する声の一切が封じる体制を言うのであり、しかし「一般意志」においては、それを立ち上げる手続きは残されています。

  たとえば、国家防衛を命ずるのは誰か。言うまでもなく執政体としての政府です。ルソーの文を引きます。

  《困難な問題は、どんなふうにして国家という全体の中にこの政府という従属的全体を位置づけて、政府が自己の組織を強化しながらも全体の組織をいささかもそこなわないようにしたらよいか、また政府が、自己保存のために用いるべき特殊な力と、国家の維持のために用いるべき公的権力とのけじめをいつもわきまえているようにできるか、要するに、政府に、いつでも人民のための犠牲になり、人民を政府のために犠牲にしないという覚悟をつけさせておけるか、ということにあるのだ。》
(第三篇 第一章「政府一般について」)

  むろん佐伯さんは、ルソーがこういっていることなどとうに承知でしょう。しかしまた、ルソーは「一般意志」が簡単に実現されるとも、一言もいっていません。むしろ逆でしょう。国家の契約性、機能性を際立たせる国家論は、主として左派のもの、と見なされており、言ってみればここで敵の「神」を撃っているわけで、つまり議論における戦略であることは理解できます。しかし、ここまで、たいへんバランスのよい議論をしてきた佐伯さんは、ことルソーに関しては、きわめて偏った議論をしている、という印象が抜きがたいのです。

  長い引用になりますが、あるいはまた、「市民的宗教について」の章。

  《確かにルソーは、契約の論理を徹底して追い込んだ。自由な人間の自己利益と理性に基づく契約という論理である。この社会契約によって国家共同体が形成される。しかし、そのためには一般意志が不可欠であった。そしてそれをさらに突き詰めれば次のようになる。一般意志の実現には、ただ利己心や理性があればすむというものではない。契約の神聖、法への忠誠、そして祖国愛をもたらす「何か」がなければならないのである。ここに「共和主義の精神」というべき「市民的宗教」が要請されることになる。》

  小浜さん、「社会契約論」の最後の「市民的宗教について」の章、どのように読まれたでしょうか。佐伯さんは引用のように「祖国愛をもたらすもの」、「精神的態度」や「精神的価値」として、いわば国家を支えるもの、というバイアスのなかで読んでいます。しかしそうでしょうか。わたしにはむしろキリスト教批判として、当時のキリスト教がいかに腐敗し、国政の運営にとって謀略のために利用されていたか、そしてルソーの構想する国家にとって妨げと感じられていたか、というようなモチーフを読んだのですが、いかがでしょうか。

  ともあれ、佐伯さんは、「市民宗教」とは「共同性への信頼」であり、「市民であることの精神的絆」だと解釈し、「市民的な信仰告白」であるとまで書いていますが、わたしにはこれほどの比重を置いた理解は納得できません。宗教を持つことは、祖国防衛が自明だったように自明な時代、人間の不平等の根源を説くルソーは、むしろ無神論に近づいていたのではないかと推測したくなるほどです。つまりわたしが言いたいことは、この「市民宗教について」の章は、佐伯さんが力説する「共和主義の精神」などというようなものだったか、いささか疑問だと言うことです。

  なぜそのような強引な読みとなったか。おそらく佐伯さんのポイントはその次にあります。

  《社会契約論は、この後者の「隠された次元」を議論から排除しようとする。だがそれを徹底して排除するところから、ルソーの暗示したおそるべきジレンマが生じる。すなわち、共和国の全体主義国家への転換というあのジレンマである。言い換えれば、公的政治空間として構成された共和国の理念を、あのジレンマから救い出すものは、この共和国の背後にあるあの「隠された次元」、歴史性と習俗や自主性に基づいた共同性の次元にほかならない、といってよいであろう。》

  社会契約は「合理的にかつ理性的に構成された世界で」あるが、その背後に「隠された次元」があるとし、それが「市民宗教」であると。つまりその強調のために、いってみれば「市民宗教」の項を自説の補強のために引き寄せて解釈していると思われるのです。つまり佐伯さんは、国家を構想するにあたって歴史的・文化的次元への視線を欠くことは、全体主義に転倒することになる、という主張に沿って、「一般意志」を読み解いたということになります。

  しかし、「一般意志」とはそのようなものでしょうか。わたしもしっかりと把握しているという自信はないのですが、逆に考えてみれば、同じ政治信条、宗教、民族という「神」のもとでの集団は、その「神」を守ろうとする意志を持った共同意志です。一般意志ではありません。まったく異なる政治信条、宗教、民族であれ、そこでしかるべく手続きとルールによってある共通の意志が確認され、表現されたとき、それは「一般意志」となる。そして「一般意志」そのものが国家を支えるのです。

[次へ]