主催者談義 小浜逸郎←→佐藤幹夫 往復メール

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 佐藤幹夫  2001/10/29  テロリズムから始まり一般意志へ 佐伯啓思『国家についての考察』をめぐって
 小浜逸郎  2002/1/15  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信1-
 小浜逸郎  2002/5/10  Re:テロリズムから始まり一般意志へ -返信2-
 佐藤幹夫  2002/11/24  最悪の「戦争」について、ひとつだけ加えておきたいこと

From: 佐藤幹夫
To: 小浜逸郎
Date: 2001/10/29
Subject:

テロリズムから始まり
一般意志へ

佐伯啓思
『国家についての考察』
をめぐって
Page:4/7
  

4.「保守」と国家観

  小浜さんも書評で指摘している通り、この著作は大きくふたつの柱からなっています。ひとつは「国家」を忌避してきた戦後社会のゆがみに関する分析であり、もうひとつは、グローバル化と個人主義の時代における、佐伯さんなりの国家像の提出です。そして一貫して流れている基調音が、「保守」とは何か、というモチーフです。たとえば佐伯さんは、次のように書きます。

  《言い換えれば、「わたし」と「国家」をつないでいる国家についての「わたし」の意識、ひいては「われわれ」の意識についていかに自覚的であるか、ということこそが決定的な問題とならざるをえないのだ。国家とは常に反省観念であり、「わたし」もしくは「われわれ」の国家意識(この両者は決して無関係ではない)として反省的に意識の野へと「引きずり出される」ほかないものなのである。それはしばしば否定的・批判的にいわれるナショナリズムとは違う。だが、このような自覚を封じ込めようとする「何か」がわれわれの上に強く作用しているのだ。平和主義や民主主義がイデオロギーと化すのはまさにこのときであって、それがこの自覚を「ナショナリズム」と規定して封印しようとするのである。》

  国家とは反省観念であり、ナショナリズムとは区別されること、しかしそれが封じ込められてきたのが「戦後」であったこと。そして佐伯さんを突き動かしているのは、前述したように個人主義が進み、グローバル化とそれに伴う多民族化の趨勢が避けがたい今日、この日本という国の固有性を、いかに守るか、です。そこに佐伯さんは、「保守」としての死力を尽くしているといってもいいほどです。

  むろん、目配りの行き届いた、たいへんバランスのいい議論がなされていることは認めなくてはなりません。まず、国家とは反省観念であるという指摘は、わたしにはたいへん斬新なものに感じられます。実体として考えるのではなく、「わたし」との絶えざる関係のなかで生じる問いこそが、国家を支えるものであること。その問いを通じて、「平和」やら「民主主義」やらが実質を伴ったことばとなること。そしてそれは、個が個とした自立するためにとっても必要欠くべからざるものだということになります。この議論はわたしを納得させます。

  「危機」とわたしが書いたことも、ここに連なります。今回のテロにあって、わたしもまたご多分にもれず、グローバル化する世界とは何か、国家とは何かという問いを喚起させられたわけですが、このような問いこそが、実は国家を支えるものだという指摘は、なるほど、これが二重性をつなぐことかと実感させるものがあったわけです。

  しかし佐伯さんの問題意識の根幹には、次のような問いがあります。戦後、特にこの十年、わたしたちの「魂(エートス)」が完全に空洞化してしまったこと。そして国家を支える価値とはその「魂」にかかわるものであるとされていること。つまり佐伯さんの反省観念としての国家とは、失われた内なる規範を回復するための国家でもあり、その限りにおいて、生きる態度といったものを内在させたきわめて倫理的なものだということです。おそらくここが、自らを「保守」とする所以なのでしょう。

  小浜さんは国家を「機能としての国家」と「情念としての国家」と二つの側面に分け、今後、「機能としての国家」の面をさらに強くしていくのは避けられないと指摘されたのですが(『なぜ人を殺してはいけないのか』)、佐伯さんもまた国家の二側面を「市民的(法的・政治的)側面」と「歴史的・文化的側面」と措きます。小浜さんの指摘に交錯させるならば、佐伯さんのスタンスは、むしろ連綿と続く歴史や文化の重層性に比重を置いたもの、つまりは「情念としての国家」のほうにスタンスがかかっていると受け取れます。

  なぜならば、佐伯さんは、国家の機能面のみを取り上げる国家観を、「国家なるものの決定的な側面」を把握できないばかりか、問題としても提起できないと批判します。その「決定的なもの」とは、何が国家を支えているのか、という問いであり、なぜ把握できないかといえば、機能という「作用面」以外の、そこからはみ出る「存在面」をすべてナショナリズムであるとして排除しようとするからだ、とされます。このような契約的国家観にあっては、国家は行政サービスの機構としての側面を強めていくわけですが、そこには納税者という意識はもちえても、国家を支えるもう一方の主体という発想は、当然希薄になっていきます。したがって、佐伯さんの論述の比重は国家の歴史的・文化的側面に、つまり「情念としての国家」にかかってしまう、というバイアスを受けることになるからです。

  ここでわたしは、素朴な疑問を抱くことになります。わたしたちがいま立ち会っている混乱や精神の空洞化が、倫理的な価値や規範をもった国家観を取り戻すことによって埋めることができるのかどうか。あるいはまたわたしたちのコンセンサスが、そのような方向に向かうことになるのかどうか。この問いにどこまで答えられるかが、この著作のポイントの一つとなるのではないでしょうか。

  そしてここが、小浜さんが示された国家観と、どう交錯するのか。

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