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掲載誌:正論
(2005年8月号)

中学公民教科書を読む

  来年から使われる中学教科書の採択作業が八月末を目途に進んでいる。四年前同様、今年も歴史教科書や公民教科書をめぐってひと騒動ありそうである。現に、六月十四日付産経新聞のコラム「産経抄」によると、札幌市教職員組合が見本の展示会を開き、扶桑社の歴史・公民教科書(「新しい歴史教科書」「新しい公民教科書」)だけは省かれていて、代わりにその不採択を求める署名用紙が配られていたという。

  筆者は教育論などを手がけている身であるにもかかわらず、これまでこの問題にあまり強い関心を示さないできた。というよりもある程度、意識的に距離を取ってきたといったほうが正確かもしれない。いまでもあまり騒動に巻き込まれたくないというのが正直なところである。

  というのは、第一に、歴史や公民教科書の編集・検定・採択をめぐっては、左右の政治的運動が絡まり、双方の思惑が渦を巻いてぶつかり合うので、ある教科書を批判すると、その批判者がただちにどちらかの派につく者という安易な二項分類の目でとらえられがちだからである(本誌は保守系オピニオン誌ということになっているが、筆者自身は特に保守派を標榜する者ではないことをおことわりしておきたい)。また第二に、多くの教科書に思想的な偏向が看取されるとしても、そういう議論だけに力を集中させると、議論が熱を帯びてジャーナリズムをにぎわせればにぎわせるほど、教育問題が政治イデオロギー問題にすり替わって現下の教育の根本問題がどこにあるかに目がいかなくなりやすく、その解決が先送りにされる可能性があるからである。

  もちろん教科書問題がどうでもいいと言っているわけではない。しかし優先順位から言えば、いまの日本の教育についてまず考えるべき問題は、そもそも教育の現場で、教師・生徒間での普通の意思伝達が機能せず、そのことが若者にとって必要最低限の知識・技能の獲得や人格形成を阻害しており、やがてそれが共同社会全体の運命にとって大きな弊害をもたらすという点にこそある。いわばこの太い「タテ棒」の問題が中心課題であって、左右の思想的な攻防という「ヨコ棒」の問題は、その中心課題の一部をなすにすぎない。 タテ棒の問題を脇に置いて、ヨコ棒の問題にあまりに熱中すると、「言論をモノする大人たち」の理念の空中戦に陥りやすい。それはヘタをすると、かつての文部省と日教組との対立が現実の子どもたちを蚊帳の外においた不毛なイデオロギー論争に終わったのと同じような結果になりかねない。いまの生徒たちの学校に対する意識や態度や気分がどのような生態を示しているか、そのなかで、現在「教科書」という情報資料がその内容の如何にかかわらず、教育の形式として実際にどれほどの機能を果たしているかという視点を失ってはならない。そして筆者の見るところでは、残念ながら、それは限りなく軽いものとなってしまっているように思われる。「近代学校」的な指導スタイル全体に対する倦怠と離反の気分が平均的な子どもたちを支配しているからである。このことをまず留保条件としてしっかり押さえた上で、以下の議論に臨みたい(この点に関連した最近の筆者の基本的な考えについては、『正しい大人化計画』ちくま新書参照)。

  とはいえ、公正中立な立場から見ても、札幌市教組がとったような態度は、事実とすれば、はなはだ偏向した「サヨク」的なものであることは疑いない。検定を通過した(あるいは通過する可能性のある)教科書を採択権限のない教職員が前もって力によって排除するような振る舞いは、自由主義的な法治国家の住民として許されるべきことではない。そのことははっきり言明しておきたい。

  自由主義国家における教科書は、多様なものであることが望ましい。多様といっても、明らかに間違ったことが書かれていては困るし、妙な宗教教団や政治結社のプロパガンダのようなものでもいけない。そのために検定制度があるのであって、これは国民全員によって公認された事実である。その制度に対して正当な手続きを踏んで提出された教科書の流布を妨害するような行為は、象徴的な意味で、全体主義国家の暴力にも匹敵すると言えよう。

  さて、今回見本本として公開された中学公民教科書の具体的な内容検討に移るが、ここでは、あくまで一言論人としての自由な立場からいくつかの教科書を思想的に批判したいと思う。ちなみに、こういう試みは筆者にとって初めてのことで、これまでどの出版社がどういう政治的な偏向を持った教科書を発行してきたか、執筆陣がどういう思想の持ち主であるかといった背景については、まったく知識がない。どんな先入観もなしに抱いた感想を虚心坦懐に述べることにする。

  また、筆者が関心をもつのは、主として「人権」問題と「ジェンダー」問題と「国家の安全保障」問題である。これらはそれぞれが互いに密接にかかわりあうので、適宜あちこちに飛びながら考えを述べていきたい。錯綜した記述になることをお許し願いたい。

  まず「人権」についての考え方であるが、近代民主主義国家においてはどこでも、法によってこそ人権が保障されるのであって、法の存在と人権とは切っても切り離せない関係にある。個人が人権を主張できるのは、それぞれの自由や安全を脅かさないように、互いにルールを守るかぎりにおいてのことである。言い換えると、国家の秩序の根幹をなす「法」と無関係に、天から降って湧いたような「人権」概念が個人に適用されることはあり得ない。国家は統治権力を一部に集中させて人々の権利の乱用を法律によって制限し、かつ調整するが、同時に統治権力の権限は憲法によって制限される。統治権力は国民の人権を保障する責任を負うが、その代わり国民は国家が決めたルールに服することの必要を自覚しなくてはならない。そのような一種の「ギブアンドテイク」の関係にもとづいて初めて一般国民の人権と統治権力の法の行使との均衡が保たれる。

  このように、法というものがなぜ必要なのかについてきちんとページを割いているのは、扶桑社版(p68、69)だけであり、他社のものは憲法一二条の「国民は、これ(自由と権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と一三条の「国民の権利については、公共の福祉に反しないかぎり、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする」という規定に則って、「公共の福祉」の項目での記述があるだけである。それも社によってかなりバイアスの違いがある。

  たとえば、清水書院版と大阪書籍版はそれなりにバランスの取れた記述となっているが、東京書籍版の次のような例示はいかがなものだろうか。

《しかし、例えば、政府が市民団体の活動に対して、「この団体の活動は社会秩序にとって危険であり、公共の福祉に反する」として禁止することになると、市民団体は自由な活動の場を失ってしまいます。(中略)何が「公共の福祉」にあたるのかを政府が一方的に判断して、人々の自由な人権の行使を制限することがあってはなりません。》(p55)

  この例示は、明らかに執筆者が「市民団体の活動」を全面的に支援する思想の持ち主であることをあらわしている。市民一般の要求ではなく、何か特定の「団体の活動」と銘打つだけでも反国家運動を無条件で是認するようなニュアンスが感じられるが、もしこの「市民団体」を「宗教団体」に置き換えたらどうであろうか。オウム真理教の悪夢はまだ人々の記憶に新しい。宗教団体も市民団体の体裁をとることがいくらでもできるし、合法的活動に見せかけて市民生活を破壊する恐ろしい活動を準備したり行使したりできる。そのようなときに、政府が緊急事態として迅速な判断と対応をせず、のんきに「国民」全体の四分五裂した意思表示が統一されるのを待っていたら、どういうことになるだろうか。この例示は、一二条の国民の責任を謳った条文のほうは無視して、一三条の政府の責任のほうだけを強調した、きわめて偏った記述と言わなくてはならない。

  他にも東京書籍版には、首を傾げざるを得ない記述が多い。たとえば、死刑制度について、現在の日本の世論における存廃の議論がどういう状況にあるのかを公平に載せるのではなく、廃止を目指すアムネスティ・インターナショナルの活動を一方的に言挙げし、あたかも廃止が絶対的に正しいことであるかのような印象を植えつけている(p59)。

  また、多くの教科書で、誰もがまったく「平等な」存在である(べき)ことが自明のように強調されていることにも違和感をかき立てられる。もともと日本国憲法が「法の下の平等」を謳っているので、現在の公民教育としてはそれに則らざるを得ないのはわかる。しかしあまりにものごとの「仕分け」をわきまえない記述ではないだろうか。たとえば――

《人間なら、女性であろうと男性であろうと、子どもであろうと大人であろうと、だれにも認められる当然の権利のことを人権という。だから、人権はどんな権力によってもうばわれてはならない。》(日本書籍新社版p92)

《人権の保障は、わたしたちすべてが享受します。大人も子どもも、老人や女性、障害者、外国人も、すべての人々の人権が保障されます。》(東京書籍版p43)

  一見、反論の余地なく正しいことを語っているように見える。だがこれらは、ただ抽象的な理念を無条件に正しいものとして断定しているだけである。「子どもであろうと大人であろうと」などとその違いを簡単に無視できるだろうか。またたとえば外国人も税金を払っているのだから参政権も認めるべきではないかというのは、いま議論されている重要な案件だが、参政権にも地方自治における選挙権や被選挙権、国政におけるそれらなどいろいろある。この断定に従えば、そういう微妙な問題を無視して、議論の余地なく日本国民とまったく同じ「人権」をただちに与えろという話になってしまう。日本国家の主権を危うくしかねないこの種の断定は、乱暴な押しつけというほかない。

  ロック、ルソー、モンテスキューの御三家とアメリカ独立宣言、フランス人権宣言とを西欧の人権思想の発祥として表示し、その後の人権思想の広がりを祖述する手法は何十年間変わらない公民教科書の定番だが、これらの流れに見られる「すべての人間は平等な権利をもつ」という思想は、無条件に成り立つものとして拡大解釈されてはならないはずである。

  この思想は、あくまで「一定の理性と完成された人格を持つ個人」の「法的」な平等を謳ったもので、いわば近代国民国家の確立と維持を支えるためのやむを得ざるフィクションだった。そのことを忘れて、誰でも無差別無条件に同じ「天賦の自由と人権」が与えられているという文脈によってあらゆる人間の生活場面を地均しできるかのように記述するのはおかしい。たとえば、死刑囚、服役者、知的障害者、精神障害者にも普通の市民と百%同じ人権があると平板に断ずるのは実態にもあわず、彼らの処遇をめぐる難しい問題を見えなくさせてしまう。

  彼らもまた「人間」として尊重されなくてはならないことは言うまでもないが、その法的な処遇をめぐっては、一定の区別があってしかるべきであろう。現に、未成年者は大人と同じ権利を行使できない代わりに、手厚い保護の対象とされ、大人が引き受けるべき義務と責任からは免れている。また刑法三九条では、行為時に心神喪失や心神耗弱の状態にあった者に対して、罰しないか刑の減軽の措置を施すことが定められている。そしてこれらの「区別」の考え方は、人権思想の元祖であるロックや、自由主義思想の元祖であるミルの書物にも但し書きとしてちゃんと出てくるのである。「同じ人間」であることを強調するのもけっこうだが、同時に、人間社会の関係や秩序がさまざまな属性の「違い」(たとえば男女の違い)を仲立ちとしてこそいきいきと機能していることをも指摘する必要があるのではないか。

  ことに「子どもの人権」という概念は、人権概念の無軌道な拡張であって承服しがたい。たとえば日本書籍新社版は、やたら「子ども中心主義」に従った記載が多い。27ページには、「ある中学校の生徒憲章」なる記事が取り上げられ、「子どもも人権の主体であるという考えがますます強まっている」と記されているし、88、89ページには、「NPOでの模擬選挙で投票する中・高校生」だの「子ども国会」だの「国連に参加した高校生」だのという写真がでかでかと掲げられている。また、90ページには、長野県での中学生の住民投票の写真が紹介されている。

  子どもに、その発達年齢に従って、徐々に大人としてのシミュレーションをさせる試みそれ自体には異論はない。しかしそれには、同時に、そうした行為が他人の運命を作用するという責任の自覚が不可欠であることを教える試みが伴わなくてはならない。権利の行使ばかりを教えて、生活体験の面で大人であることのきつさを味わわせないのは、自由と責任、権利と義務との表裏の関係をないがしろにした単なる「いいとこどり」であろう。東京や埼玉の一部などで、教師の評価権を生徒に与える試みがなされているが、これなどは、そうした「いいとこどり」の最たる例である。

  ジェンダー・フリー教育や、「外で働くこと」を絶対無条件でよしとするフェミニズムの考え方も、多くの教科書に反映している。この傾向を最も強く打ち出して「男は仕事、女は家事」という考え方を目の敵にしているのは、教育出版版と日本文教出版版である。

《「地域では、政治に参加している女性って少ないよね?」と考えたことはありませんか。「男は先」「政治は男の世界」というような考え方には、特定の人々に不利益をあたえるものも少なくありません。》(教出p27)

《職場や地域社会で女性が活躍し、役割をはたすのは当然のことです。しかし、いまなお「男性は仕事、女性は家事・育児」という考え方があります。そのため女性が社会で活躍することが難しい面が残っています。》(同p38)

  教育出版版にはこの種の表現がいたるところに出てくる。また男女の採用差別解消を訴える女子学生のデモ行進の写真(p47)や、セクハラの例として、男性が女性に「女だから男みたいないい方をするな」、女性が男性に「男の人ならもっとしっかりしなさいよ」と言っているイラスト(p49)、諸外国と比べて日本の女性国会議員がいかに少ないかをしめすグラフ(p63。なお同じグラフは日本文教出版版p59にも見られる)、さらに、検定による修正前の文章だが、「ジェンダー・フリーの社会へ」という見開き全部を費やした大きなコラムでは、「ぼく」とか「わたし」という使い分けさえも「つくられた性別」であり、「大切なのは、ジェンダーが生まれついたものではなく、社会的につくられたもので、変えられるということです。わたしたちは、あたりまえと思い込んでいる『男はこう、女はこう』というしばりから自由(フリー)になり、自分らしく生きられる社会をつくっていけるのです」(p82)と述べられている。

  ほとんどフェミニズムの宣伝パンフレットである。思わず苦笑してしまうが、セクハラの正しい概念を歪曲しているし、ともかく「男らしさ、女らしさ」という観念を何とでも撲滅しようと必死になっている様が受け取れる。何をそんなにいきり立っているのとからかいたくなってくるほどだ。日本の近代社会で、男性が主として外で働き、女性が主として家庭内の仕事を受け持ってきた慣習には、それなりの捨てがたい知恵がはたらいている。

  多くの女性は出産、早期育児というたいへんきつい、しかも重要な人生経験をくぐり抜ける。その時期のたいへんさ、重要さを無視して、いつの時期にも女性が男性と同じように外で働くべきだという考えを教科書で訴えるのは、明らかに普通の生活者感覚に対するイデオロギー的な押しつけである。また、女性国会議員が少ないからといって、フィンランドのように、一定割合を女性議員が占めるように法律で強制するのは、本末転倒である。なおこのフィンランドの男女平等法における「アファーマティヴ・アクション」の規定は、日本書籍新社版p101に麗々しく掲げられているが、これもいかにもそうした考えが全面的に正しいかのような煽動効果を持っている。現在の日本では、男女差別なく参政権が保証されているし、政治活動のできる条件も十分に揃っているのだから、政治的能力のあるものなら誰でも議員になれるはずだ。結果的に女性議員が少なくなるのは、民意の反映であって、それを無理に変えようというようなプロパガンダを教科書で行うのは思想の強要である。

  日本文教出版版では、日本でM字曲線(出産適齢期の女性就労割合が谷間となる)が見られることを指摘して(p35)、この事実がさも議論に値するかのように暗示している。しかし、わが国のM字曲線は、むしろ豊かな国の健全な生活者感覚のあらわれであり、平坦になってしまう他国のほうが、出産、早期育児期にも外で働かなくてはならない無理があらわれているのだ。けっして「日本よりも進んだ」現象ではない。したがって、乳児保育促進政策は、どんなときにも女性は外で働くべきだという硬直したフェミニズム思想の反映であり、筆者はまったく賛同できない。

  他にも日本文教出版版では、シルバー人材センターから派遣された保母さんにだっこされた赤ちゃんの写真を載せ、「お母さんに抱かれるよりも、安心しているように見えるわね。」と感想を述べる女の子のイラストを付している(p25)。これはふざけた話だ。つまりお母さんの自然な愛情を否定して、子どもは外注で育てるべきだという思想を強要していることになる。すべての女性がどんなときにも外で働くことをよしとすれば、専業主婦の存在は否定される。これは多様な生き方を推奨する教科書執筆者たちの考えとも矛盾するはずである。また当然母親の育児責任は放棄されることになる。こういう考え方を押し進めていくと、子どもを産まれたときから親元から引き離し、家族固有の絆を否定する全体主義社会にならざるを得ない。そのことを執筆者たちはどこまで視野に入れているのだろうか。また同社の教科書では、すでにペンディングとなっているはずの夫婦別姓問題への言及が多すぎ、著しくバランスを欠いている。

  帝国書院版にもひとことしておきたい。いったいにこの社のものは、社の名前に似合わず、まず「国民」としての「公民」意識を涵養しようという姿勢が欠落しており、目次にも「地球市民として生きる」という表題が平然と掲げられている(この傾向は、東京書籍にも共通している)。そして自然環境問題やカンボジア和平のような特殊な問題にやたら多くのページが割かれている。それを一概に悪いこととは言わないが、「地球市民」なる一般的・抽象的な概念をそのまま私たちの生活感覚の通念とする前に、世界には多くの主権国家があり、日本がことに東アジアという国際環境のなかでどのような困難な位置に置かれているかという問題意識をいっぽうでもっと強調すべきではないか。

  たとえば「アマミノクロウサギにも『生きる権利』が」(p109)と題するコラムでは、自然保護団体の訴訟を紹介し、「『自然』に権利を求めてもよいのではないでしょうか」とある。これまた「権利」の概念を無限拡張したお笑いである。自然環境が大切なのは、あくまで人間にとってであり、ある生物や風土を守らなくてはならないのは、そうしなければ私たち人間の環境が危うくなるから以外ではない。私たちは、生きていくために多くの生物を殺している。毎日食卓でうまい肉や魚を食べることができるのは、人工的な培養や殺戮のシステムがあってのことである。第一次産業こそは最大の自然破壊であり、人間は歴史上止むことなく自然破壊をして生き延びてきたのだという冷厳な現実にいっぽうで気づかせるのでなければ、環境教育として片手落ちというほかないだろう。

  国家を個人の自由や権利に対立するものとのみ見なし、その必要性について素通りしてしまう傾向については、ほとんどの教科書に共通している。東京書籍、帝国書院、日本文教出版、大阪書籍、教育出版、日本書籍新社の六社の教科書には、国の政治システムや国連の機構についての通り一遍の説明はあるものの、当の日本の安全保障に関する記述がほとんどまったく見られない。それは結果的に、暗に国民国家の存在をどうでもよいものと見なし、一足飛びに「世界市民」「地球市民」「世界平和」などの観念的な理想を持ちさえすれば私たちの公民生活が成り立つかのような幻想を振りまいていることになる。

  たとえば日本書籍新社版では、「憲法第9条の平和主義の立場にたって、世界平和に積極的に貢献していくことが、わたしたち日本国民に求められています」(p139)と断定されているが、これはただの護憲スローガンであり、「9条改正に賛成」が国民世論の多数を占めるにいたっている現状を隠蔽するものである。ちなみに筆者自身は、民主主義国家であればこそ、自衛のための国軍の存在は必要であり、そのことを国民全員の合意によって承認すべきであると考えている。

  たしかに二十世紀の国民国家は多くの悲惨な戦争を引き起こしてきた。しかし、国家はどう観念的に乗り越えようと思っても現実に存在するのだし、当面、日本国民は、厳しい国際環境のなかで日本民主主義国家という共同的なまとまりや、他国との複雑な外交上の努力とを、自由と安全と繁栄のための盾として堅持していかざるを得ない。ナショナリズム忌避のあまり、「人類みな兄弟」式の安易で観念的な平和主義ばかりを強調するのはいかがなものだろうか。アメリカ、中国、韓国、北朝鮮など我が国が深い関係をもつ諸国との緊張状態がどうなっており、どのようにすればそれを克服できるのかなどの現実的な問題提起を次世代に向かって示唆することが、わが国における公民教育として必須の条件の一つではないだろうか。

  以上、各社の公民教科書の記述に限って批判してきたが、はじめにも述べたとおり、筆者は現在の学校現場における教科書の効果というものを過度に信じていない。しかし、現実にこれらの教科書が採択される以上、批判は必要であろう。硬直した記述に左右されない現場での柔軟な活用に期待したい。