小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:子どもの科学
(2005年5月号)

人はなぜ家族を営むのか

■子どもの養育が家族の根拠?

  人はなぜ家族を営むのか。

  この問いにうまく答えるには、もし人が家族を営まないとどうなるかと考えるとわかりやすい。

  家族を営まなくても、男女の性交渉は行われるだろう。すると、全員が常に避妊するのでない限り子どもが産まれてくる。周知のとおり、人間の乳幼児は放っておけば死んでしまうような未熟の状態で何年も過ごさなくてはならない。そこで、手厚い養育の必要が生じる。誰がその役割を背負うのか。

  それは産みの親が背負うのが一応自然なことに思える。すると、子どもが大きくなるまでの期間は、産んだ母親と産ませた父親とが一つのまとまりを作ってその任を分けもつのがこれまた一応自然に思える。そこで、夫婦関係と親子関係という一つの家族の原型が取り出せたことになる。ちょうど多くの鳥がそうやっているように。

  これでもうはじめの問いの答えは出てしまったようだ。人は養育の必要から家族を営むのである、と。

  だがじつは、「一応自然なこと」とことわったように、これには反論も可能である。人間は血縁関係を超えた社会集団(共同体)を作って生きる動物である。共同体が、いま述べた家族の生物学的な原型を超えたかたちで安定的に成立していれば、必ずしも産んだ母親と産ませた父親とがセットになって養育をになう必然はない。生まれてきた子どもは共同体の全員、あるいはその役割をあてがわれた特定のメンバーによって育てられることが可能だからである。

  じっさい、太古の原始的な共同体ではそういうことがあっただろう。というのも、「産んだ母親」という観念は、自然的な事実に強力に支えられているのできわめてわかりやすいが、「産ませた父親」という観念は自明なものではなかったからである。特定の男女の性交渉と妊娠との間に切っても切れない関係があるということを人類が知ったのは、さほど古いことではない。

  文化人類学者のマリノウスキーは、『未開人の性生活』(新泉社)のなかで、調査対象となったある部族がこの因果関係をけっして認めようとしなかったことを記している。彼のフィールドワークによれば、彼らは、性交渉は女性の膣に精霊が入り込みやすいように穴を開けるだけであり、子どもができるためには必ず精霊の仕業がなくてはならないと主張して譲らなかったというのである。その論拠として彼らは、誰もが性欲の対象としてしか扱わないひとりの醜女を例に挙げて、彼女はたくさんの男にもてあそばれているにもかかわらず、少しも妊娠しないではないかと言ったそうだ。

  また、一定の地位や権力をもったカップルが、その間にできた子どもの養育を引き受けない例はいくらでもある。乳母などの存在がそのことを示している。さらに、ある特定の地域と時代に通い婚の風習が存在した(らしい)ことを考慮するなら、先の、「養育の必要」から「産みの父母とその子ども」というまとまり集団としての「家族」を根拠づける論理は、ますます薄弱なものとなる。

  現代に視点を移してもこのことは言える。現代では、共働きが多いために、乳児の段階から保育所に子どもを預ける例がたくさんある。私は個人的にはこれをあまりよいことと思っていないが、理念としては、こうした例をもっと極端に押し進めて、子どもが産まれたらその養育はただちによく環境の整った専門の養育機関に預け、産みの父母と子どもとの関係を断ち切るというかたちを考えることも不可能ではない。つまり家族を解体させて次世代は社会全体が育てることにするという人為的・機能主義的な発想である(これについては最後に再び言及する)。

  このように考えてくると、人がなぜ家族を営むかの理由を、子どもの養育の必要にだけ求めるのでは不十分だということになる。

  では、そのほかにどんな要因が考えられるだろうか。はじめに提示した論理の筋道には、どこかに見落としがなかっただろうか。

■家族成立の条件

  まず考えるべきなのは、そもそも家族を正式に営むためには、その前に結婚が必要とされるという事実である。そこで、結婚とは何か、人はなぜ結婚するのかと問うてみなくてはならない。

  結婚とは、特定のカップルが排他的で持続的な性関係を結んだことを周囲の社会から承認してもらうことである。たとえ性関係だけが持続していたとしても、周囲の社会からの公式的な承認がなければ、それを結婚とは呼ばない。

  では、なぜそんなことをする必要があるのだろうか。

  それは、人間の持つ性意識の特質によっている。人間の性意識は、発情期を失っているために、もともと、いつでも誰とでも性関係を結ぼうとする志向性をもっている。この開かれた志向性が、人間の性関係の乱脈さを潜在的に基礎づけているのである。事実、人間の性関係はほうっておくといくらでも乱脈になる。あるいは、権力の強い男が多数の女を独占するということにもなりがちである。これは安定した社会生活を危うくする。

  こうした事態は避けられなくてはならない。というのも、社会生活の秩序を根源的に規定しているものは、人々が互いにかかわるもう一つの領域、つまり労働の領域だからである。労働の領域に性愛の力学が侵入すると、それは複数の人間(男女)が集まって何事かをなすための統制がきかなくなり、その秩序は一気に破られる。人類はこのことを知って、二つの領域の混交を避ける知恵を学んだ。性愛の領域がいまも当事者だけの「秘め事」とされているのはそのためである。

  この知恵はいろいろなかたちで活かされてきたが、最も明確な制度として根づいたものが「結婚」である。あるカップルが結婚することの社会的な意義は、それによって、一組の性愛関係に他の人間がみだりに侵入せず、同時に、結婚の当事者がみだりに他の異性と性的なかかわりをもたないという歯止めを、自他に対して強く印象づける点にこそある。このことによって、当事者も周囲の者も、とりあえず安心して労働の共同性に参加できるという心理的な安定を得るのである。

  もちろん、結婚は市民契約とは違って、ただの心情的な約定であり、けっして絶対的な拘束を課すものではない。ことに現代のような自由主義社会では、この心情的な約定を当事者や他の誰かが破ったからといって、罪を着せられることはない。それは離婚や不倫が横行していることからも明らかである。

  しかし現代でも結婚が祝福されることを考えると、それが右に述べた意義、すなわち、一般的な労働の共同性が安定的な秩序を維持するために、一組の性愛カップルの排他的な相互独占を承認するという意義が曲がりなりにも機能していることが知られる。結婚が祝福されるのは、二人の間に「永遠の愛」なるものが保証されたからではなく、ある特定の性愛的な共同性と一般的な労働の共同性との間に「棲み分け」モードが成立したからである。

  次に、結婚した夫婦が名実ともに「家族」と呼ばれるに値する集団のメンバーとなるためには、そこに子どもが生まれなくてはならない。むろん子どものいない夫婦も家族と呼んで一向にかまわないが、それは夫婦が夫婦であるかぎりいつでも子どもをはらむ可能性のうちに置かれていればこそである。子どものいない夫婦は、いわば家族の予備軍である。子どもを産める生理的な年齢の限界を超えてしまった夫婦でも、養子という手があるわけだから、それが「家族」概念を形成できる予備軍であることには変わりない。

  家族とは、こうして、社会的に承認されたヨコの性愛関係と、そこから生まれてくる子どもとのタテの関係(親子関係)という、互いにクロスした構図を核とするところにはらまれる共同観念のことである。家族とは、あれこれの構成メンバーが作る生活実態ではなく、私たちがそれぞれの慣習にしたがって認めるところの「観念」なのである。

  さて、子どもができた場合に、何をもって家族と呼べるかと考えたとき、両親が単に養育の責任を果たすだけでじゅうぶんかと言えば、じつはそうではない。それだけだったら、多くの鳥や一部のほ乳類も行っていることである。ここにも、私たちがともすれば見落としがちなすぐれて人間的な条件がからんでいる。

  その条件とは、夫婦関係以外のメンバー間では性的な交渉をしてはならないという規則、つまり近親相姦の禁止の規則が徹底されることである。

  先に述べたように、人間の性意識は、いつでも誰とでも性交渉をもちうるという可能性のうちに置かれている。また禁止の規則があるにもかかわらず、じっさいに水面下では近親相姦は多く行われている。そもそも、禁止の規則があからさまに存在すること自体が、そういうことが行われていることを証している。それはちょうど、誰も人殺しをしないのだったら、「殺人の罪」なるものを法的に規定する必要がないのと同じである。

  もし近親相姦が社会的に公認されれば、その時点で家族は「家族」であることをやめる。なぜなら、その場合には、配偶者関係及び血縁関係のなかで、だれそれはだれそれの「父」であるとかだれそれの「妻」であるとかだれそれの「妹」や「兄」であるといった相互認知の了解が崩壊するからである。この相互認知の了解が崩壊した関係をもはや「家族」と呼ぶことはできない。

  たとえば、ある親子相姦の結果そこにあらたな子どもが生まれてくれば、その子どもはある親の子どもであると同時にその同じ親と夫婦でもあれば他の子どもの弟妹でもあるというような事態が出現する。これらが発展して錯綜すれば、もはや特定の誰と誰との関係は何関係であるか名指すことが不可能になる。つまり「家族」という認知の構造が、観念としては崩壊するのだ。

  このように、近親相姦の禁止の規則は、見えにくいところで「家族」という観念そのものを強力に支えているのである。両者は同じ観念の裏と表と言い換えてもけっして過言ではない。

■家族成立の歴史

  以上のように、家族が「家族」として成立する条件は三つあって、この三つだけが本質的な条件である。その他のこと、居住の仕方とか、経済の運営の仕方などは、状況に応じて多様な実態としてあらわれる便宜的な条件にすぎない。その三つとは――

  1. 一組の性的なカップルが、その排他的・持続的な関係を維持することを当事者も周囲も認めること。
  2. この性的関係から生じた子どもの養育責任を、当の性的なカップルがになうこと。
  3. その内部において、配偶者同士以外の性的な交渉が禁止されていること。

  これらが家族を成立させる本質的な条件であるということは、逆に言えば、これらの一角が普遍的に崩れれば、私たちが「家族」と呼んでいる共同性は、その存立の必然性を失ったことになる。結局のところ、「人はなぜ家族を営むのか」という問いに対する答えは、私たちの誰もがこれらの条件のどれか一つを完全になくすことを望むかどうかという問いに置き換えることができる。

  すでに述べたように、人が数千年の間家族を営んできた背景には、単にそれが自然な気持ちだからとか、寂しくてエロスの共同性を作ることにやみがたい欲求を抱くからといった主観的・感情的な理由だけではなく、人間の性意識がもともときわめて乱脈なものであって、それを放置すれば社会的な共同性が成り立たないという客観的事情が存在していた。

  右の三条件は、どれか一つを落としてしまうと、この客観的事情を確実に侵食することになる。またこの三条件は、互いに関連し合い支え合って「家族」という観念の形成と維持とに与っている。たとえば、2.の養育責任を完全に抹消すると、3.の禁止観念が揺らぐし、1.の結婚の承認がどうでもよいと考えられるようになれば、乱脈さが前面に躍り出るので、2.の条件もいいかげんなものになってしまい、3.もまた崩される可能性が大きいだろう。

  さてそうだとすると、私たちは、そんな世の中を望むだろうか。というよりも、そういう滅茶苦茶な世界がどんなものか、リアルにイメージできるだろうか。家族は「観念」であると言ったが、それは人間社会の秩序をぎりぎりのところで防衛するための「擬制」であると言い換えても同じである。この「擬制」はしかし、どうしても必要な擬制ではないだろうか。

  ところで、ふつう私たちは、「家族」なるものが太古の昔からくっきりと社会制度として存在したと考えがちである。しかし、そう単純に考えないほうがよい。というのは、先にも述べたように、それは人類が性的な結合の強さと血縁の観念とを基盤として編み出した一種の知恵の産物(人倫的な共同体)であって、時代をさかのぼればさかのぼるほど、その輪郭はあいまいなものとなるにちがいないからである。

  家族とはあるまとまりの観念だから、他の共同性との関係によってその輪郭もまた定まる。おそらくかつての小さなムラ社会的(氏族的、部族的)な共同体では、私たちがいま考えるような家族的な共同性はそれほど強く意識されなかった。その代わりに、ある共同体全体の宗教とか、労役を通じたまとまり意識(たとえば狩猟や航海や戦闘に参加する男たちの共同性)のほうが重みをもって受けとめられ、配偶関係や血縁関係の認知構造としての「家族」は、その原理を保存しながら、それらの共同性(同胞意識)のなかにぼんやりと融解していたと考えるのが妥当だろう。

  時代が下るにしたがって異なる共同体同士の交雑が起こり、これらの同胞意識は複雑なものとなって拡散した。そしてそれをまとめ上げるためには、国家のような超越項が構想されなくてはならなくなった。その過程で家族的な共同性は、一般的な共同性やそれを統べる国家と明瞭に区別されるものとして、ちょうど粒子が下層に沈殿するように強く意識されるようになってきたのだと考えられる。

  しかしいっぽう、家族は近代になって初めて成立したというようなよく見かける言説も極端である。配偶関係や血縁関係の認知構造としての家族観念は、やはり歴史時代のはじめから存在したと見なすべきで、それはたとえば、山上憶良の歌やギリシア神話(たとえばオイディプス神話)や旧約聖書などからじゅうぶんにうかがえることである。

■家族に代わる共同性は可能か

  家族的な共同性の観念が古い起源と深い理由をもつことを記述してきた。最後に、現代日本において家族が危ういと感じられるとすれば、それはどうしてなのか、そのことにはそれほどの根拠があるものなのかについて言及したい。

  家族の危うさは、いま次のようなかたちで感知されている。離婚率の増加、未婚者・単身者割合の増加、晩婚少子化傾向、結婚に対する規範意識の希薄化など。

  しかし、まず統計上、時系列的な連続性が得られないためたしかな証拠がないが(推定的な数字はある)、明治の初期は時代の激動期にふさわしく、いまよりもずっと離婚が多かったと言われている。また一般に離婚率の増加は、それだけでは家族の未来を占うことにならない。というのは、再婚率の変動状況を同時に見なくてはならないからである。じつは離婚率の上昇と併行して、ここ数十年、再婚率も大幅に上昇しているのだ(拙著『男という不安』PHP新書参照)。これはつまり、人々の結婚願望、家族形成願望が衰えていないことを示している。

  さらに、未婚者の増加や晩婚少子化傾向も、それだけでは家族の危機を証拠立てる指標にはならない。というのは、第一に、確信的な独身主義者というのはいつも一割に満たず、この割合はここ何十年かでほとんど動いていない。つまり、大多数の人々は「できれば結婚して家族を作りたい」と思っているのだが、さまざまな社会的要因に規定されて仕方なく未婚、晩婚、少子状態になっているのである。第二に少子化がどれだけ進んでも、どの夫婦も子どもゼロとなることはあり得ないし、少子化が家族や社会の未来にとって悪いこととも一概に言えない。

  また、これもたしかな統計的根拠がないが、江戸時代のような身分制社会では、二男、三男などは嫁を迎えることが非常に難しく、一生単身で暮らす者がたいへん多かったと言われている。離縁、再縁もしょっちゅうだったらしい。それでも家族は続いてきた。単身者が相当数増えても、それは家族原理一般の危機を意味しないのである。

  ミもフタもない言い方になるが、独身で一生終える人が多くても、それは一代かぎりで終わってしまって次世代にほとんどなんの影響も与えないから、家族の原理はそのまま継承されるのである。結婚規範の希薄化も、結婚する人が少数派になってしまうほどにはならないだろう。一国の人口が減るだけである。

  はじめのほうで、子どもの養育責任を両親から引き剥がし、社会の手にゆだねる理念について触れたが、これはイスラエルのキブツ共同体、ヒッピーコミューン、一時期のソビエト連邦、ヤマギシズムなどで一種の共産主義的な理念として実験的に試みられた。しかし、いずれもある範囲以上には広がらず、その内部においても矛盾を克服できずに衰退している。

  その衰退の理由はなんだろうか。二つ考えられる。一つは、自分の産んだ子どもは自分の手で育てたいとする人間の基本的な欲求である。これが全社会にわたって消滅することはあまり想定できない。

  もう一つは、共同体が子どもたちをみんなで育てるという理念をほんとうに徹底して実行するためには、その前に男性がどの女性とも自由に性関係を維持することを相互承認しなくてはならない。すると、父親が誰かをめぐって嫉妬感情の交錯や財産継承の争いが巻き起こることになる。この混乱を収拾するうまい方法はないと言ってよい。共産主義的な理念は、じつは意外なことに、こうした性的な関係にかかわる人間のこだわりの部分と根本的に抵触するのである。

  そういうわけで、私たちが近代市民社会的な「家族」と呼んでいる形態は、それなりの歴史的な知恵の上に組み立てられた観念なのであって、これが基本的な原理の部分でそうそう簡単に崩れることはないと考えて大過ないであろう。