日本語の「思想」という言葉には、なにやら重々しい響きがともなっている。「思想家」となるともっと物々しい感じで、自分から「私は思想家です」などと冗談抜きで表明すれば、あきれ顔をされずにはすまないだろう。
最近私は、いわゆる当たり前の単語が辞書でどう説明されているかを調べる「中学生の悪癖」めいたものが身についてしまったようで、ためしに「思想」についてもやってみた。
(1)人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。社会的・政治的な性格をもつものをいう場合が多い。(2)単なる直観の内容に論理的な反省を施して得られた、まとまった体系的な思考内容。(3)考えること。考えつくこと。(『大辞林』三省堂)
(1)と(2)にはいずれも「まとまり」という但し書きがついている。岩波の『広辞苑』でもほとんど同じような説明がなされているが、(3)に当たる部分が最初に来ている。どれが先に来ようが後に来ようがかまわないが、ふつう「思想」と聞けば、(1)や(2)に当たる語義を思い浮かべるのが当然と見なされている。だが辞書の編纂者はさすがに寛大なるかな、ただの「考えること、考えつくこと」を付け加えるのを忘れていない。
思想とは、ただ「考えること、考えつくこと」である。人間はだれでも生きている限り、「考える」営みから逃れられない。そしてこの営みは、何の変哲もない反復的な経験にせよ、いままで味わうことのなかった新鮮な経験にせよ、およそ人生経験と言えるものには必ずつきまとうので、たとえ「まとまった体系的な」体裁を取らなくても、ある「型」となってその人の次なる生き方を規定する。だから人間はみな「思想家」である。しかしほとんどの人は、自分が思想家であることに気づかない。その理由は、単に、自分が備えている思想の「型」を持続的な営みとして言語に定着させようとする性癖や志向や暇がないからにすぎない。いわばほとんどの人は、ちょうど政治を政治家に任せるように、思想をそうした性癖や志向や暇のある専門的な「思想家」にゆだねて、しかるのちその表現と判断を自分の生き方と照らし合わせるのである。採るべきものは採るがよい。捨てるべきものは捨てるがよい。
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人も知るように、西尾幹二氏は、戦後の主流をなしていた軽薄な「進歩的知識人」たちや「西洋かぶれ」の言論風潮に一貫して抵抗してきた「保守思想家」の巨頭である。また国難の感知を言論にのみ表現して事足れりとすることを潔しとせず、歴史教科書問題のような社会運動のリーダーシップを発揮しないではおれない情熱的な「社会運動家」としての側面もお持ちである。多くの人は、ジャーナリズムが作り出すこの政治言論や社会運動の構図における一方の雄としてのイメージを通して西尾氏の名を知ったであろう。
しかし私の推測では、氏がじつは、モンテーニュやパスカル、ラ・ロシュフコー、少し時を隔てて、キルケゴール、ニーチェ、カミュ、我が国では小林秀雄や福田恆存といった、いわゆる「モラリスト」の系譜に連なる、冷静な人間観察力と鋭い心理洞察力をそなえた倫理思想や文学思想の持ち主でもある事実は、氏自身の華々しい活躍の陰に隠れて、案外知られていないような気がする。いや、知っている人はじつはたくさんいるがただ黙って読み味わっているだけで、私などがいかにも賢しらにその事実を言挙げする必要はないのかもしれない。
けれども、ふつうの人間がみな思想家である以上、専門的な「思想家」が、その代弁者としてどれだけふつうの人生そのものについて含蓄の深い言葉を発しているかについて何か言ってみたくなるのが、西尾思想の一ファンとしての人情というものである。なぜなら、氏の言説のこの側面が、万一、政治的な言論枠組みの単純で声高な分類と理解によってかき消されてしまうようなことになったとしたら、それはどう見ても思想が思想として迎え入れられるべき公平さと自由の原理に背く仕儀となるからだ。
本書は、その「モラリスト」としての氏の側面が遺憾なく表現された著作のひとつである。著者への失礼を顧みずに言えば、マイナーな雑誌に発表された連載エッセイから多く収録されていて、そのせいもあってか、かえって大舞台での公式言論の建て前が強制してくる窮屈な鎧を脱ぎ捨てた、自由闊達、潤いと味わいに満ちた人生論集の一見本となっている。日常生活で出会うふとした経験の数々からの一瞬の感知を自ら過たず捕捉し、それを若き日々に積んだ読書体験による確乎たる人間観に結合させてゆく巧みな氏の手法は、並大抵のものとは思われない。
泥濘のような政治言論や社会運動の世界に自ら飛び込んで八面六臂の多忙さを引き受けてこられた西尾氏に、どうしてこのような人間観察を表現に定着させるだけの「ゆとり」が見いだせるのか、正直なところ不思議としか言いようがない。しかしよくよく考えれば、それだからこそ、と言えるのかもしれない。そういえば、マキャベリもホッブズもロックもゲーテもスタンダールもそうだった。いろいろやっているからこそ見えてくる物事について表現せずにはいられなくなるのだ。思想の大きさとは、そういうことかもしれない。
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私は、このたびこの解説文を書かせていただくに当たって、氏がご自身の経験や見聞を具体的に記述されている部分をとりあえず洗い去り、その抽象化され普遍化された人生観について自分が共感したところだけを抽出してみた。するとそれはいくつもいくつも出てきて、結果、一編の見事なアフォリズム集が出現するのを目の当たりにした。
だがそれをすべて書き出したのでは紙幅が足りないし、解説にもならない。ここではごく限定して再現しつつ、それについて、蛇足ともいうべき私見を寄り添わせることで我慢することにしたい。なお、引用の順序は本文の章構成とは異なり、私が勝手にシャッフルしている。
よく女性の「自己実現」ということを聞くが、男性も含めて、職業の多くは「自己実現」の手段でも何でもない。私も自分の所説を述べ、本を著して生きているが、それが「自己実現」だなどと大それた考えを抱いたことは一度もない。人は誰でも、何もない人生の空白の時間をそれぞれが自分なりのやり方で埋めているだけである。つねづね思うのだが、本当に「実現」すべき「自己」を持っている人が私には羨ましい。そういう「自己」を持っている人は、男女を問わず、覚悟して不幸をいとわぬ茨の道を歩むことだろう。(「宿命について」)
ここでターゲットにされていることは何だろうか。
言うまでもなく「現代人」の負の側面である。「自己実現」「自分探し」「本当の自分」等々、今日流行の言語は、これらが、あたかもあらゆる人々に等し並みに通用するかのように用いられている。しかし誰にも何かそのようなものがあると錯覚させるまさにそのような用い方によって、「自己」や「自分」という概念がほとんど内容空疎である実態を見せつけられる結果となっている。
仰ぐべき「共同体の神」を喪失した現代人は、必然的に抽象的な「自己」という概念に自らの心情の重荷を背負わせざるを得ない。だが、そんな重荷に耐えられる中身のある「自己」の持ち主などほとんどいないから、不安な意識は永遠に救済されず、いつもあなたこなたと彷徨うことになる。それは不幸なことではないのかと、西尾氏は問題提起しているのである。そんな意識の彷徨いに真の「精神の自由」などないはずだ、と。
そこで人々は自分の価値を判定するために無意識のうちにどういう善後策を講じるだろうか。他人との比較を通してかろうじて優越を確保しようとする哀しい虚栄や、それが満たされないときに陥る怨恨や嫉妬の虜となることによってである。しかもその他人との比較は、あまりに自分とかけ離れた存在との間でなされるのではなく、自分よりも少し上や少し下の存在との間で行われる。隣の芝生が気にかかって仕方がないいじましい心性から私たちは誰もが自由になれない。つまり、
自分の価値を自分で設定することは何人にも出来ない。他からどう見られるかが、自分の価値の半分以上を決めている。虚栄心は人間の宿命であり、人間性そのものの属性であるとさえ言ってよいかもしれない。(「虚栄について」)
宗教心に全身全霊をゆだねることも出来ず、こういうせせこましさの悪循環から人間がもはや逃れられないのだとすれば、人間精神はまことに救いのないペシミスティックな未来展望しかもてないことになる。たしかに、「人間とはしょせんこんなものだ」といった心理観察や箴言や認識のたぐいは、真相をうがっていればいるほど人をシニシズムの快楽のようなものに誘い込む。だが西尾氏の思考はそこにとどまらず、真の「精神の自由」への足がかりを示唆するところまで突き進もうとする。
たとえば氏は、五十歳を過ぎた某省の局長が「若い人の対話に入っていけないから浅田彰を読む」と発言した例を挙げて、その年齢で「読みたくないものは読まない」と言えないエネルギーの欠如を哀れに思うという軽侮の念をあからさまに言明し、虚栄心にも高低があることを指摘する。どうせ虚栄心や嘘から逃れられないなら、もっと虚実を使い分け、簡単には見抜かれないような大人の虚栄心を身につけよ、ということだろうか。いや、その過程をくぐり抜けたさらにその先に、「己の欲するところに従う」境地があり得るではないかということであろう。
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では、真の「精神の自由」への足がかりは、どういうところにかろうじて見いだせるだろうか。本書に散見される知恵を拾い集めてみると、その条件がいくつか指摘されていることがわかる。
ひとつは、人間の魂にとって最も自然で奥深い感情である羞恥心をわきまえること。
人間は自分の優越に、それがよしんば事実に裏付けられず、想像的概念にすぎない場合にもせよ、幸福を感じるという救い難い側面を持っている存在だが、そのことに羞恥を覚えるというもう一つ別の、自然な心の働きを持つことによって、自分の尊厳を自分の手で辱める愚行から守られれているのである。(「羞恥について」)
また、自分の不自由感の原因を、安易に社会的な障害のせいになどにせず、その主たる原因が自分自身にあることを深く自覚すること。
弱い者だけでなく強い者も、才能のない者だけでなく才能のある者も、女性だけではなく男性も、人間である限り、ことごとく、自分というものを扱いかね、苦悩している。一番手に負えないのは自分という存在である。自由を妨げているのは自分であって、自分の外にある社会的障害ではない。(中略)そのような自分と闘うことから真の自由が始まる。障害と闘うことは何ら自由を意味しない。(「宿命について」)
そして、人生の究極的意味などは存在せず、日々の些末事が持つ個々の意味こそが人間の生を支えていることをよく悟ること。
生きている限り、われわれは自分の生を総体として把握することを封ぜられている。それでいて、われわれは毎日のつまらぬ雑事、よしなしごとに果たして意味があるのかどうかを疑う心を持っている。それらの持つ全体としての意味が何であるかをあらためて問い直す心を持っている。しかしまた、同時に、それら雑然たる関心事や刺戟や用務の持つ個別の意味以外に何か究極の生の目的を見出そうとしてもそれは不可能だし、ドストエフスキーの描いた徒刑囚のように、人間が些少な個々の物事によってその日その日に自分の生を無言のうちに支え、自分をいわば生かしていることをもよく知っている。(「退屈について」)
さらに、過去と自分とを切り離したところに自分は存在しないという事実を肝に銘ずることによって、後悔や懺悔などの不要な感情から解放されるように自らを鍛えること。
それなら過去に犯した罪や失敗に対し、われわれはどう対処したらよいのだろう。一切無視してしまえということなのか。考えないことにしてしまえばよいということか。諦めてしまえばそれでよいのか。私はそういう事を言っている積りはない。むしろ、自分が何かの行動をした結果がたとえ悪と判明したにしても、その結果から問題を判断してはいけないと言っているのである。自分が何かの行動をした――その時点での行動はそれなりに重いのであって、結果の善し悪しとは別に、その時の自分をもっと尊重したらどうか、と言っているのだ。(「苦悩について」)
正直なところ、いずれも難題を突きつけられている気がする。
羞恥心を常にキープしようとすれば、果敢な行動が不能になる可能性が高い。社会的な不正を不正として剔抉し、それと闘うことは身を守ることにとって必要である。人生の究極的な意味が与えられれば、人はそれによって意欲や目標や安息を得ることが出来る。後悔は、軽率な判断に基づいた行動であればあるほど、次なる行動のための反省を促す感情として意味を持つことがあるし、たとえ意味を持たなくても自ずから抱いてしまうのを抑えることは不可能に近い。
しかし、難題が難題であるのは、生きることそのものが難題だからである。西尾氏がここで提示しているぎりぎりの知恵が、どういう感情や行動に対置されたものであるかに注意しよう。それらの感情や行動は、もしそれに単純にはまってしまったら、結局は人間が人間としての尊厳と生き抜く強さを維持することにとってネガティヴな効果しか持たない種類のものばかりである。
恥をわきまえない行動は、他人の鼻つまみ者となる道に自らを追い込む。不運をかこって人のせいにする傾向は、乞食の卑屈さを演じるに等しい。人生の外側に意味や目的を求めれば、はじめから自分を現世における弱者と認めたことになる。ただの後悔や懺悔に溺れることは、前に進めない鬱状態に人を固定してしまう。
偶然の運命や不条理をそれとして引き受け、その場所において能う限り闘う――神ではない人間には、それ以外に方法がないではないか。宗教の作り話を否定し、ニーチェの「運命愛」の思想を血肉化した西尾氏は、その前提に立ってゆっくりと内省を繰り返すことで、「現代人であるわれわれ」みんなに、そう呼びかけているのだと思う。その声は高くないが、大きな思想に共通のきびしさを帯びている。