「愛」という言葉は、とかく美しい誤解のもとに語られがちである。私たちはまったく質の違ったものをひとくくりに「愛」と呼ぶ粗雑な習慣に慣らされているので、この言葉を使うときには、どういう意味で使っているのか自覚的でなくてはならない。しかし粗雑な習慣とは言っても、いくつかの質の違うものをそのようにひとくくりにするからには、そこに何らかの共通点もまたあるにちがいないので、そのこともまたみておかなくてはならない。
私は、「愛」という言葉を、「惹きつけられた対象に向かって自分の心身や持ち物を投げかけることによってその対象と一体化したいと願う感情」と定義づけている。これが「愛」という概念の共通点である。では、さまざまな「愛」の質の違いはどこからくるかと言えば、それは、「惹きつけられる対象」の違いにもとづく関係のあり方からくる。そこで、対象を人間に限定して、その上でその対象の違いによって「愛」を分類してみると、およそ次の四つになる。
これら四つの「愛」は、それが生活のなかで実現されるとき、互いに矛盾し、相克する。対象と様式がみな違うからである。人々は人生のプロセスで、これらの異なる「愛」を時と場所に応じて使い分けている。
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ところで、「純愛」と言うとき、ふつう(2)の「性愛」の範囲内にかぎって使われる。これは、性愛が他の愛と違ってそれだけ不純なものを含みやすいことを逆に証拠立てているだろう。そしてその理由もまた、この「愛」が、その対象において「一人の成熟した個別身体」をめがけており、その様式において必ず相手から愛されることを期待しており、その強度において激しく能動的である点に求められる。なぜなら、こういうスタイルの「愛」は、互いの自我を不安定にさせずにはおかず、その不安定さに乗じて、理想化された「愛」の観念とは異なるいろいろな要素が忍び込みやすいからである。
しかし、考えてみると、「純愛」という言葉もよくわからない言葉である。いったい何を指して純愛と言っているのか。辞書でひいてみると、「邪心のない、ひたむきな愛」(大辞林)などと書いてある。ではここで言われている「邪心」にはどんなものが含まれるのだろうか。
まず思いつくのは、相手の財産や地位や社会的能力などに対する打算が入り込んでいる場合である。次に、容姿のセクシーさだけを追い求めて、相手の全人格に惚れるのではないようなケースである。また相手がこちらに気がありそうなのにつけ込んで一時の性欲を満たすために相手をものにするといった場合も考えられる。さらに、プレイボーイや悪女のように、誘惑すること自体にそのつどスリルを感じる「恋の冒険者」なども含まれるかも知れない。
だが、言葉というものは、もともとはっきりとは分けられないものを無理にでも切り分けようとする。いったいに、異性に惚れると言うとき、これらの「邪心」が一つも入り込んでいない場合などあり得るだろうか。またたとえ「邪心」がなくても、はじめはそんなに自発的に好きではなかったのに相手の情熱にほだされてだんだん、しかし相手と同じほど強くはない程度に好意を持つようになった場合とか、不倫恋愛をしていて相手が配偶者か自分かどちらかを選んでくれと言っているのにずるずると決断を伸ばしている場合なども、「純愛」の範疇から外されてしまうだろう。だとすれば、他の性愛と形式の上で区別される純粋な「純愛」など現実にはほとんどないといってもよい。
とすると、「純愛」という言葉で私たちが表現しようとしているのは、その形式上のあり方よりは、むしろ情熱の真剣さとか濃さのことであると思われる。たぶん人は阿部定のような例に「純愛」の典型を見ているのだろう。だがこれを本当に成就させることは、文字通り至難の業だ。
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さて、ここにさらに性差の問題が絡んでくる。「男の純愛は可能か」――こんな問いを立てること自体、何となく女に比べて「純愛」能力が劣っていることをはじめから認めてしまっているようだ。だが、結論を先に示唆しておくと、男の純愛は、その真剣さと濃さにおいて、危ういところで可能なのである。ともあれ、男と女の間に横たわる性愛関係の構図の、動かし難いあり方について確認しておこう。
すでにあちこちで書いてきたことだが、性愛関係の構図における動かし難いあり方を象徴するもっともわかりやすい例は、次の三つである。一つは、痴漢、強姦、強制猥褻、露出症、窃視癖などの性犯罪や性的逸脱を犯すのは、ことごとく男であること、二つ目は、売春市場が、少数の例外を除いてほとんど男が買い、女が売るかたちで成立していること、三つ目は、男性読者向け週刊誌と女性読者向け週刊誌との間には、その記事や広告の中身に顕著な違いが見られること(男性誌には女性ヌードやエッチ系の広告があふれているが、女性誌には美容にかかわる記事や広告があふれている)。
これらの現象が象徴するところを一言で総括するなら、女性は「エロスの宝」を自らの身体(ただの肉体ではない)に内蔵しており、それを男性に向かっていかにうまく表現するかによって性愛能力が試されるのであり、逆に男性はその宝をいかにうまく手に入れようとするかによって性愛能力が試されるのである。
この事実を表層だけでたどると能動ー受動のベクトルは男性から女性に一方的に向けられているように見える。また実際、男性は女性を一個の人格として恋するよりも、美しい顔とセクシーなボディの持ち主であるかどうかによって相手を選んでしまう傾向が強い。しかし、ことはそう単純ではない。というのは同時に、この非対称な関係の構図は、心理的には性愛関係を成立させるのに必要な許諾権をもっぱら女性が握っていることをも意味しているからである。男性が暴力や権力や金にものを言わせて女性の体を奪うのでないかぎりは。
そこで、次のことが言える。
どのような理由にせよある男がある女を恋したとき、その恋心は、許諾が得られるかどうかをめぐって悶々とした悩み(恋煩い)に発展しやすい。それが高じて相手をつけ回す行動になってあらわれれば、いわゆる「ストーカー」となってしまう。
ストーカーという言葉は近年定着した言葉だが、要するに恋煩いが歪んで表現された行動様式である。女のストーカーがあまりいないのも、性愛における非対称な関係の構図とその構図を基盤とした男性の側の理性的な抑制とが結びついた結果、女性がもっぱら許諾権を握っているという事態が成立しているからである。金銭や暴力を媒介にしないこのような心理的関係では、比喩的に言えば、通常の売春とは逆に、たいていの女は気まぐれな買い手であり、大してもてないふつうの男は必死で自分を商品として売り込まなくてはならない売り手である。やや誇張して言うなら、女は、男が性的に女を必要としているほど、男を性的に必要としていないのだ。
そして、ここが重要なところなのだが、「男の純愛」と「ストーカー」とは、じつは紙一重である。紙のこちら側には許諾権を得ようとあがいている「もてたい男」「もてない男」が山ほどいる。それは強引な行動に出ないかぎり、まさに「純愛」なのである。薄紙一枚を破って向こう側に出てしまった男は犯罪者とされてしまう。片想いにとどまるかぎり、「男の純愛」はいくらでも可能である。しかし、『春琴抄』の佐助のように自ら春琴との一体化を実現すべく両眼を突いて盲目となるほどの覚悟がなければ、やはり「男の純愛」を成就させることは至難の業と言えよう。