小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:宮崎日日新聞
(2005年2月18日付)

禁煙論議にひとこと

  ここ数年、公共空間での禁煙エリアが次々に広がり、嫌煙家と愛煙家との対立や分煙の工夫がさまざまに演じられている。もちろんこのせめぎ合いは、迷惑をかける可能性を持つ側の愛煙家に分が悪く、彼らはしぶしぶ「時代の流れ」を受け入れつつ、「これはファシズムだ」という陰口を漏らすことで甘んじている。

  先ごろイタリアで、レストランなどでの喫煙者を見つけたら店主が警察に通報することを義務づけ、違反すると多額の罰金を科せられる法律が成立したそうだ。正直なところびっくりした。イタリアというのはいい意味でも悪い意味でも、その爛熟の歴史ゆえに、もっといいかげんな国だと思っていたからだ。この種の法的な強硬措置がいい効果をもたらすとはとても思えない。どうして思えないのか、その理由を人間論的に語ってみたい。

  私はたばこを吸ったりやめたりした経験を何度か持つ。その経験を通して、なぜ多くの人は酒、たばこ、麻薬などを「わかっちゃいるけどやめられない」のかについて少しばかり考えてきた。結論として出てきたのは、「すべての人間は本質的に中毒存在だ」という命題である。何も愛煙家を擁護しようと思ってこんなことを言うのではない。喫煙行為が、ある条件下で他人に迷惑を及ぼすのは明瞭で、その限りで嫌煙家の主張は正当である。ことに人混みでの歩きたばこは絶対にやめてもらいたいと思っている。

  しかし、たばこは健康に悪いという一見強力な「医学的真理」を私は信じていない。人間は精神衛生の保持という面倒な課題を抱えているから、適度の嗜癖は当人の健康にとってよいという逆の「真理」も同じくらいに成り立つのだ。精神衛生を保持しなくてはならないのは、人間が中毒存在だからである。その心は、「絶えず意識を何かの行動や信念や目標に差し向けていないと気が落ち着かない存在」というところにある。私たちは身体の現在に休らうことができず、いつも「気分」を状況から浮き上がらせ、その浮き上がりの着地先を求める。それが結果的に嗜癖であったり、好奇心であったり、宗教であったり、健康こそ大切だという信念であったり、ビジネスへの熱中であったり、強圧的な制度であったり、さらには、芸術や科学であったりさえする。だから人間が中毒存在だという命題は、嗜癖に耽る人ばかりでなく、逆に衛生や健康を過度に気にする人たちにも当てはまるのである。

  科学が核兵器を産んだように、何事も過度の「中毒」がよいはずがない。人は一人で生きているのではないから、本人のみでなく、必然的に周りの人にも悪影響を及ぼすことになる。したがって、人権社会を逆手に取った「愚行権」などというリバタリアンの屁理屈も私は認めない。

  何年も前にツアーで同行したあるベジタリアンが、既定の昼食を拒否して無理な注文を出したために、ウェイトレスが怒りを爆発させる光景に接した。私は当然だと思った。歩きたばこと同じ迷惑をかけているのだ。

  信念に固執せず、「いずこも同じ中毒患者」であることを互いによく自覚し、適度な寛容と場にふさわしいマナーとを失わないようにすることが、共存共栄に結びつくのだと思う。これを「いい加減」と言う。