ここ数年、言語に関心を持ち、のろのろと勉強してきたが、あまりに緩慢なペースのために、いったい自分がどうして言語に関心を持ってきたのか、その初発の動機がどこにあったのかがぼやけてしまった。それをこの時点できちんと再確認しておかないと、せっかく少しは勉強してきたことの意義が雲散霧消してしまう。そこでこの稿では、いまなぜ思想にとって言語の問題を考え抜くことが大切か、またそもそも言語にはどんな問題がはらまれているのか、さらに言語によって言語をとらえようとする自己言及的な試みは、果たしてどこまで可能なのかについて、自分なりの考えを述べてみることにする。
現在、人文的な知や思想に対する懐疑と倦怠が蔓延していて、そんなものは役に立たないという感覚が一般の人々の間では当たり前になっている。ここで、一般の人々というとき、おそらく日本人だけにかぎらない。この懐疑と倦怠の感覚は、少なくとも先進国の平均的な生活者すべてに共通ではないかと推測される。
理由はいろいろ考えられる。第一に、社会のシステムがきわめて複雑で高度なものになり、あるかぎられた人々の頭脳の営みによっては、その全体像やゆくえがつかみきれなくなったこと、そして第二に、社会主義の実験が失敗に帰し、当面、どの国家や社会も資本主義的な欲望の恣意性と多様性とをまず承認することを自明の前提としなければその運営がたち行かなくなったという原始的な状態に差し戻されていること(ちなみに、「資本主義」とは何か決まった「主義」とか「価値観」ではなく、私たち人間の多様な欲求を資本の運用によって満たそうとする傾向のことである)。
第三に、自然科学的な世界観・人間観にもとづく技術の発達の大きな成果が、哲学をはじめとする人文的な知の必要性の感覚を片隅に追いやってしまったこと、さらに第四に、先進国に住む住民は、そこそこ豊かであるため、自分の当座の生活にかかわりのない観念的な問題に頭を悩ますモチベーションをもっていないこと、など。
ところが、こうした一種の「価値相対化」現象や「個人化」現象が支配していながら、それがさまざまな社会問題を生んでいないかといえば全然そうは言えず、また人々が充足感や幸福感をもって生きているかといえば、これもまた全然そうとは言えない。9・11テロやイラク戦争が象徴しているような、地球規模での大きな経済格差や信念対立の状況が存在する一方で、退屈をかみ殺したり孤独に悩まされたり小さなことでいがみ合ったりしながら日常生活に耐えている(先進国の)私たち一人一人がいる。
このように、マクロな視点を取るにせよミクロな視点を取るにせよ、そこにあるのは、相変わらず理性(=ロゴス、言葉)によって自分たちの生を処していくことの難しさである。言語による疎通の困難が、現代社会の問題を再生産し、増幅させているのである。そしてこのもつれた事態は、情報社会化が進めば進むほど、当面の間かえって深まると考えられる。なぜなら、情報社会化の進展は、個々の自足した共同体を壊し、さまざまな異人どうし、異文化どうしを出会わせて葛藤のるつぼに追い込むし、必要な情報と不必要な情報の区別の観念を不安定にさせて、個人個人を混乱に陥れるからである。
だから、やはり知や思想の必要は失われていないと考えなくてはならない。知や思想とは、言語をとぎすましたもののことである。言語をとぎすます必要のあるものが、言語による疎通の困難を目の当たりにして、言語それ自身について考えないでいられようか。
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言語による疎通の困難はどうして生じるのだろうか。これこそが、言語に関心を抱いた私の初発の問題意識だった。そしてこの問題は、言語の〈内側〉と〈外側〉の二つの観点から追い詰めることができる。前者は、言語それ自身の本質がどうなっているのかに着目することである。この観点からはさまざまな言語論の検討が課題となり、それらの可能性と限界を見きわめることができれば、その先に新しい言語観の構築が要請されるだろう。また後者は、人間が、外形として現れた「言語」のみによって共同的な生を営んでいるのではないことを証明することである。この観点からは、(私自身がこれまで力及ばずながら試みてきたように)身体や情緒や無意識と呼ばれる領域がどのような構造になっているかを読み解くことが課題となり、それが明らかになれば、それらの領域と言語との関係はどうなっているのかが次なる課題として要請されるだろう。
ここでは、紙幅の関係から、前者についてのみ述べる。私自身が考えたのは、言語というものがもつもともとの制約に目を付けてそこから本質に迫るという方法である。これはどんな具体的な言語体系や言語使用の場合にも普遍的に当てはまる制約でなくてはならない。そうだとするとさしあたり、次の六つの制約が考えられる。
(1) 言語使用は、一定の抽象化、概念化を免れ得ない。――「このリンゴは赤い」というとき、リンゴという名詞はその個物それ自体を写さず、リンゴ一般をあらわす他はない。また赤いという形容詞も、いろいろな赤については何も語らない。この事情は、どんなに言葉を精密化しても原理的に変わらない。
(2) 言語使用は、五感のうち本来、聴覚にのみ訴える。――視覚情報としての言語(文字)は、実際にか、または観念的にか、音声化されることによってのみその役割を果たすので、二次的な言語である。この場合、言語が音声としての本質をもつという点は変わらない。また触覚言語(点字)は、音声的なやりとりによって積み上げられてきた「概念」の体系がいったん文字化され、さらにそれが視覚障害者の体験様式に翻訳し直されたものという意味で、三次的な言語である。身振り言語(手話など)も類似の過程を含むと考えられるが、この場合は、別途考察を要する。
(3) 言語使用は、時間に沿ってなされるので、線形性という特質を免れ得ない――これは、一見、言語使用以外のどんな経験にも当てはまるように思えるので、特に「言語の制約」として挙げるべきではないかも知れない。しかし翻って、私たちの「経験」と呼ばれるものが、果たして直線的な時間軸のまったき制約を受けるものなのかどうかは、真剣に考えてみるに値することである。たとえば眼前の光景を一瞬眺めるという知覚的な「経験」は、そのまま持続的な意識のコースに乗るものとは思えない(分節可能ないろいろな物事をいちどきにインプットしている)。また、フロイトが「エス」と名づけた無意識の領域は、彼自身によって、時間をもたないとされている。そういう領域を設定することの是非はさておき、彼が言語のような線形の枠にはまらない経験のあり方を鋭敏に察知していたことはたしかである。なお、いま挙げた二つの例(知覚経験と無意識)は、じつは互いに深い関連をもっている。
(4) どの言語も必ず規範体系をもっており、それを理解しないかぎり使用できない。――この規範体系の理解はどのようなメカニズムによってなされるか。ある特定の規範体系は、世界を「概念」によって分節する(切り取る、切り分ける)ところに成り立っている。その規範体系のあり方は、ソシュールが見抜いたように、個々の言語(ランガージュ)にしたがって恣意的である。「理解」は、その特定の規範体系を、自分の生活経験と照応させる修練を積むことによってなされる。外国語を学ぶ場合でも、子どもが言葉をおぼえていく場合でもこのことは同じである。なお、私たちが使い慣れた国語を日常的に使用している場合でも、それは理解の努力を常に多少とも伴っているので、じつは規範体系と生活経験との照応行為を不断に行っているのである。
また、この特定の規範体系に基づく理解という特徴は、他の表現行為に比べて言語による他者との世界の共有を格段に難しくしている理由となっている。音楽や美術、映像表現なども、それぞれ固有の規範体系をもってはいるが、これらはみな感覚や知覚に直接訴えるという表現特性のために、受け取る側の情緒を媒介なしに直撃するという側面が大きい。「言葉の壁がある」とか「音楽は国境を越える」などとよく言い慣わされたり、外国の詩を味わうことに感動を期待しても無理が伴うなどの事情は、このあたりのことをよく物語っている。しかし反面、言語でしか伝えることのできない人間共通の世界把握のあり方があることも見失ってはならない。
(5) 言語使用は、虚構性を免れ得ない。――これは、(1)の制約があるために、必然的にあらわれる制約である。抽象化し概念化する作用である言語使用は、いうまでもなく個々の主体同士の間でなされる。主体Aが主体Bに向かって何事かを伝えようとするとき、BはAの言語構成過程(経験→認識→表現の過程)を前もって知るわけにはいかない。したがって、それはBの意のままにならない過程であり、ある程度までAの恣意に任されている。このAのもつ恣意性は、同時にAの言語表現のもつ虚構性である。ここで虚構性とは、単なる「ウソ」という意味ではない。言語の虚構性は、「真実」に対立するものとしての「ウソ」なのではなく、むしろたえず真実を語ろうとする主体の意欲に伴う必然的な虚構性である。「真実」とはあらかじめ「ある」ものなのではなく、互いの言語行為を通して創り出され、共有されていくものなのである。
(6) 言語使用は、「実体」をあらわそうとするのではない概念をも、「実体」であるかのように思わせる傾向から免れ得ない。――この傾向は、言語行為が混沌とした現実を切り分けて輪郭を与えるために行われるところから発生する。たとえば、「心」とか「精神」とか「魂」というような言葉が典型的である。「心」とは、もともと実体ではなく、人と人との間ではたらくある作用のあり方にたいしてつけられた名前である。しかしいったんこのように名前がつけられ、それが言語生活の歴史のなかで揉まれて定着すると、そういう実体が、あたかも一人一人の身体の内部のどこか(たとえば脳や心臓)に宿っているかのように信じられる。この「信」は、あながちただの錯覚と言ってすませられるものではなく、それなりの根拠をもっている。というのも、人はそれぞれ個別の身体によって隔てられ、それらの身体はまた独自のはたらきの過程をもち、この過程によって外からはうかがい知れない意識の持続過程が支えられるからである。しかしこの意識の持続過程が他人とは自律的にはたらいている状態は、他の人々(主として養育者)との交渉過程を経ることによってはじめて可能となったのである。「私の心」は、その形式面においても内容面においても、他の身体性との関係がなければ存在しなかったのだ。ゆえに、ただ私だけが自律的な心をもっていると感じられる場合でも、それは、すでに「自我」(これも実体ではない)の基本構造として組み込まれた「内なる他者」(浜田寿美男氏の用語)に向かってはたらきかけている「作用」であり、自己自身に対する「表現」を意味しているのである。
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以上のように言語が備えているもともとの制約について考えてゆくと、言語の本質とは何であるかがおぼろげながら浮かび上がってくる。特に右の(3)と(4)と(5)が重要である。(3)(4)の制約は、言語行為に伴う不自由感に結びつき、(5)は、逆に自由感に結びつく。およそ自由や不自由が問題となるのは、私たちが何か創造的な行為をなそうとするときである。だから、言語とは、主体同士の間で行われる創造行為なのである。何を創造するのかといえば、相手との生活関係をそのつど創り出す(編み変える)ことによって、自己自身のありようをそのつど創り出す(編み変える)のである。逆に言い換えてもよい。言語とは、主体同士が未来に向かって相互に自己自身を投企することによって、関係をそのつど創り出したり、維持したり、破壊したりする行為のひとつである、と。しかしその創造行為に当たっては、共同体の歴史によって積み重ねられた厳しい規範があるので、それに則らなくてはならない。そこに言語行為に伴う自由と不自由の背中合わせになった独特な関係があらわれる。だからそれは、あくまで関係存在としての人間の自己創造行為の「ひとつ」に過ぎないという限定も必要である。
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最後に、このように言語を言語自身によってとらえようとすること(自己言及的な行為)が、どこまで言語の本質を明らかにできるかという、その可能性について簡単に触れておきたい。
結論から先に言うと、この可能性は、ある「理想」として存在する権利が与えられている。というのは、言語によって言語の本質を明らかにしようとする試みは、右に述べてきたことからして、それ自体が「自己創造行為=関係創造行為」であるから、言語による言語の解明が進められて、それが一定の普遍的な説得力(妥当性)をもったとき、そこではとりあえず言語存在である私たち人間についての共通了解のかたちが新たに創り出されたことを意味するからである。「そうか、言葉ってそういうものだったんだ」という言語的な納得が多くの人に訪れたとき、それは理想としてしか存在し得ない「真実」に一歩近づいたのだ。私たちが言語について言語によって考えようとする思想的な目的は、言語による疎通の困難を克服するというところにあったのだから、この近づきが少しでも果たされれば、それは、その思想的な目的に寄与したことになるはずである。
*参考文献