奈良県で発生した少女殺し事件の一連の経過を見ていて、その報道姿勢についてふと次のようなことを考えた。 今回とは事情が異なるが、少年が起こした残虐な犯罪事件の場合、被害者の姓名、顔写真などは大きく報道されるのに、加害者のそれは人権的な配慮から伏せられるのは釈然としないという疑問がよく湧き起こる。そしてこの不条理感のガス抜きのために、週刊誌などでは名前や顔写真を公表してしまうこともある。1997年の「酒鬼薔薇」事件の時に某週刊誌がこれを行って問題になったことはまだ記憶に新しい。
こういうことが行われるのはやはり適正とは言えない。しかし、釈然としないという感情に乗じて一部の扇情的なマスメディアがそうした「報復代行」的な動きに出るのも、現代の情報過剰社会の構造に鑑みれば、まったく理解できないことでもない。
この種の問題が発生したとき、加害者少年の人権への配慮の原則を守るべきだという立場と、まれに見る残虐な事件であれば、たとえ少年といえども社会防衛的な観点から公表すべきだというかたちで論議が交わされるのが常である。しかし、こうした問題枠組みそのものが、ある前提を疑っていないところに立てられているのではないか。
その前提とは、加害者にだけ問題の焦点を絞って、被害者の姓名や顔写真を公表することそれ自体のほうは自明視しているという点である。いったい、残虐な殺され方をした、いたいけな被害者の姓名や顔写真を全国紙で報道することにどんな社会的な意義や利点や大義名分があるのだろうか。
もちろん、全国紙が報道しようとしまいと、一定範囲に情報が広がってしまうのを抑えることは不可能だろう。だが、何も奈良県で起きた事件の被害者の個人情報を北海道の一般住民が詳細にわたって知る必要はない。もし類似の犯罪を防ぐという社会防衛論的な理性を貫くことや怒りと共感を喚起することだけを旨とするなら、「奈良県のどこそこ付近で、何歳の少女が、これこれの仕方で誘拐され、これこれの仕方で殺害された。警察はこういう仕方で捜査中」という程度の報道でじゅうぶんではないだろうか。
こうした報道姿勢の根源にあるのは、被害者遺族のやりきれない感情を無視した「下司の好奇心」以外の何ものでもない。もともとニュース報道の動機のかなりの部分は、他人の身の上に起きたことを詳しく知りたいという私たちのただの好奇心に基づいている。下司の好奇心をなるべく抑えて公共心を少しでも高めることは私たちみんなの課題ではないか。
巨大なメディアがこのことをよく自覚して自粛に踏み出しさえすれば、先に述べた「報復代行」的な加害者報道のほうもその過激さを少しは抑えられるはずであろう。もちろん、メディアだけでなく、警察側の発表姿勢も問われることは言うまでもない。
私はそう考えたのだが、法律やメディア・リテラシーの問題にあまり詳しくないので、どこかに盲点があるかも知れない。名もなき市井の被害者の名前や写真を公開することにはこれこれの公共的な意義や利点があるという確固たる論理をもっている方がいたら、ぜひその論理を教えていただきたい。