小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:SSK Report 98号
(2004年7-8月号)

未成年者はいつ「国民」になるのか

  このたび『正しい大人化計画』(ちくま新書・2004年9月刊行予定)という本を書くために六法をぱらぱらとめくる機会があり、これはどうもまずいのではないかと思った。

  まず憲法10条には「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、これに対応して国籍法1条では「日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる」とある。ところがこの法律は、日本国籍を持つ「未成年者」をどこまで「国民」として認めるのかについて考えた形跡がほとんどない。条文をたどるかぎり、両親のうちどちらかが日本国民でありさえすれば無条件に「国民」として認められるかのように読める。一方、たとえば憲法15条には「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」とあり、また同22条では「国民」という言葉は使われていないものの、「何人も、公共の福祉に反しないかぎり、居住、移転及び職業選択の自由を有」し、「外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」とある。

  すると、日本の子どもはみな「国民」なのだから、公務員を選定したり罷免したりできる理屈になる。またどこに住んでもどんな職業を選んでもよいし、勝手に国籍を離脱してもよいことになる。

  もちろん次のような歯止めはある。民法821条「子は、親権を行うものが指定した場所に、その居所を定めなければならない」、同823条「子は、親権を行うものの許可を得なければ、職業を営むことができない」、公職選挙法9条「日本国民で年齢満二十年以上の者は、衆議院議員及び参議院議員の選挙権を有する」など。それにしても、あまりに不整合である。日本国籍を持つ「未成年」は二十歳にならなければ「国民」としての権利を認められず、また義務を負わないでいいのか、それとも生まれたときから「侵すことのできない永久の権利」としての基本的人権を与えられているのか。

  矛盾を突いて喜んでいるのではない。もともと憲法と法律とはその法理において目的と抽象水準とを異にするから、実際にはそのつどの常識に従って運用すればいい。ただ私が心配するのは、ここに見られる不整合には、法律家たちがこれまで未成年者の人権の有無や程度についてきちんと考えてこなかった事実が一種のエアポケットのように反映しており、そのことが「常識」の混乱を招いているのではないかということだ。

  実際、「子どもの人権」なる概念をタテに、高校生に教師を評価させたり、小中学生に教員採用試験の試験官になってもらうなどの無原則な動きが東京や埼玉で見られる。つまり未成年者を「国民」として認め、「公務員の選定、罷免」の権利を行使させているわけである。これはしかし成人に対する人権侵害である。後戻りのきかない個人主義化の流れを歩む私たちは、この辺で、未成年者がどこからどのようにして「国民」になるのかという問題に真正面から向き合い、正しい「人権」概念に沿った法理をきちんとうち立てるべきではなかろうか。