小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:SSK Report 96号
(2004年3-4月号)

精神的「遍歴学生」が意味するもの

  ヨーロッパ中世末期からルネサンス期にかけて「遍歴学生」というのが大量に出現した。背中に大きなバスケットを背負い、生活道具と勉強道具を詰め込んで、諸国の「偉い先生」の元を尋ね歩くのである。これだけ聞くと「神」の呪縛から解き放たれた自由・自立の気風を尊ぶ新時代の到来を象徴する光景のように感じられてくるが、「解放史観・進歩史観」を素朴に信じる気にはなれない。実態は、物乞いや農家の手伝いで飢えをしのぎ、無料宿泊所や寺院などで夜露をしのいだ一種のあてどない放浪者がほとんどだったらしい。要するに土地(当時の支配的な生産手段)から閉め出されたか、地道に働くことを嫌った「フリーターたち」である。ばくちや酒や女買いで身を持ち崩した連中もさぞかし多く、「偉い先生」に巡り会えて学問に生きる道を見いだせた者などごくわずかしかいなかったにちがいない。終わりなき「本当の自分探し」は別にいまに始まったことではないのである。

  存在が意識を規定するのか意識が存在を規定するのかというのはカビの生えた哲学的な問いだが、平凡人の生活意識に関するかぎり、前者を重く見るのが妥当だろう。人は誰でも、不安をなだめるために自分が現に取っている生活行動に対して「意義と誇り」の自己肯定感情をつきまとわせずにいられないが、そのためにかえって、自分がどんな社会構造から規定されてそういう行動をとっているかという疑問には目が向かなくなってしまう。教育社会学者・苅谷剛彦氏の最近の研究によれば、「ゆとり教育」なるものが始まってからここ十数年、成績も低く社会的文化的にも低い階層に属する子女ほど、「今の成績で満足している」と答える生徒が増えているそうである(『階層化日本と教育危機』有信堂)。

  満足ならばいいじゃないかという考え方も成り立つが、五年先、十年先を見とおすことのできない年少者たちが今満足していたとしても、その満足自体が長い人生の過程で、取り返しのつかぬ後悔の種に転化しないとは限らない。そのことを現在の彼らに主体的に自覚させようとしても無理な話であろうから、年少者の教育や養育や就労にかかわる大人たちが、どういう未来社会の構想を描けば彼らの後悔をより少なくできるのかに真剣に取り組むのでなくてはならない。つまりふらふらした「本当の自分探し」など大部分が人生の無駄に終わることを自然に悟らせるような社会システムを考案する責任が私たちに課せられているのだ。

  いうまでもなく、フリーターの大量発生は、ひとり教育界の責に帰せられる問題ではなく、産業界の目先の要請に見合ったものである。ここには、個人、親、社会、国をあげての共犯関係という皮肉な「マッチング」が存在する。そしてこのマッチングは、じつはその内部に産業機能の不全化と社会的人格の不成立という巨大なミスマッチを抱え込んでいる。私たちは、高度情報社会という新しい局面における、精神的「遍歴学生」がもつ意味をもっと切実に感じ取るべきである。