伏見 憲明(ふしみ のりあき) 評論家。1963年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。著書に『ゲイという〈経験〉』(ポット出版)ほか多数。最新刊に編著『同性愛入門』(ポット出版)がある。昨秋、処女小説『魔女の息子』で、第40回文藝賞受賞。
伏見憲明のホームページ http://www.pot.co.jp/gay/fushimi/
「フェミニズム、ジェンダースタディーズが意匠が立派になるのと反比例するように、現実とのシンクロ率を落としているのは、小浜逸郎氏の議論をちゃんと繰り込まなかったからではないかと思っていました。講座の時も、思いのほか、そういった研究者や性教育の当事者が少ないことに疑問を感じた僕です」
小浜 逸郎(こはま いつお) 1947年横浜生まれ。横浜国立大学工学部卒業。批評家。学校論、家族論を中心に評論活動を展開。主な著書に『学校の現象学のために』(大和書房)、『男はどこにいるのか』(ちくま文庫)、『無意識はどこにあるのか』(洋泉社)、『オウムと全共闘』(草思社)、『癒しとしての死の哲学』(王国社)、『大人への条件』『「恋する身体」の人間学』(ともに、ちくま新書)、『「弱者」とは誰か』『「男」という不安』(ともに、PHP新書)、『なぜ人を殺してはいけないのか』『人はなぜ働かなくてはならないのか』『頭はよくならない』『やっぱりバカが増えている』(ともに、洋泉社・新書y)、『可能性としての家族』(ポット出版)などがある。
| 伏見 | 80年代にフェミニズムからジェンダーという考え方が出てきたときに、小浜さんはそれをどう受け止めたのでしょうか。 |
| 小浜 | 職場に子どもを連れていくことの是非が問われた「アグネス論争」というのがありましたね。乳幼児を抱えて働く女性の困難さと、産業界からは女性の労働力を求められる状況の矛盾をいかに解決するのか、という問題に対して、男性は比較的冷淡でした。それが吹き出したのがあの論争で、フェミニズムも諸派に分かれて論戦を闘わせていた。当時、私自身は感覚的には公私の区別をつけるという林真理子さんの立場と近かったのですが、林さんは「甘ったれるな」一点張りで、働く母親の現実に対する想像力が足りないと思い、両方の立場の克服の方法を模索しました。 社会的文化的な性差という意味のジェンダーという言葉を、フェミニストは苦労して作り上げたと思うのですが、でも、なぜジェンダーというものが歴史的に積み重ねられてきたのかと問うと、やはり、そこには自然を土台にした男と女の性差がある、という考え方にたどり着かざるを得ない。その最大の違いは女性が子どもを産むということ。あるいは、相対的に性愛では、男性は女性の身体美というものに魅かれ、女性の場合は、男性の外見とは異なるところを見ているという傾向などなど。そういう部分って、これからも変わらないんじゃないかという感じがある。 |
| 伏見 | 性愛のありようが普遍的なものかどうかは疑問なのですが、たしかにこれまではそういう傾向がありましたね。 |
| 小浜 | 肉体的な労力という意味だけでなく、子どもを産むということは大変な事業です。十月十日(とつきとおか)、孕まれた子どもと母親との間にはすでに交流がある。胎児は母親の心音や声、血流の音、外部の声を聞いているわけですよ。それが出産で身ふたつに分れる。乳児にしてみたら、聞き慣れた声がいつもそこにあって、柔らかい肌で抱きかかえられて……といった情緒的なつながりは大事です。 ところが、フェミニズムの人たちは、あまりそういうことをいわないし、むしろ反発する。三歳児神話だとかなんとかいって。それは違うと思うんです。母子関係の大切さというのはたしかにある。ですから、子どもが生まれたばかりのときに、みんなが外に働きに出ていくというのは、はたしていいことなのか、と。 |
| 伏見 | フェミニズムというのは、そういう母性に関わるようなことも、生物学的な宿命ではなく、社会的に作られたものだということにして、社会進出や自己実現を図ろうとするものだと思うのですが、小浜さんは、それにちょっと待てよ、と? |
| 小浜 | そうです。アメリカの実証実験でも、生まれたばかりの赤ちゃんに、母親と別の女性それぞれに物語を読んできかせてみると、圧倒的に母親の声に反応する、という結果がある。そういうことはかなり客観的にいえるんですね。 |
| 伏見 | よりよい子育てには母親が必要であるということですか。 |
| 小浜 | 早期育児にはそうですし、母親にしても、後ろ髪ひかれながら仕事に行かなくてもいいので、少し専業したほうがいいのでは、と私は考えます。そして2歳でも3歳でもいいですけど、手が離れてきたら、父親にサポートしてもらいながら、職場に復帰する、そういう形が一番いいと思います。実際に意識調査などでも、そういう考えの女性が多い。 |
| 伏見 | そりゃ、そうでしょうね。出産・育児も経験できて、職場復帰も以前と同じような条件で可能ならば、そのほうが人生お得ですものね。ただ小浜さんみたいに、生物学的な根拠を持ち出すと、反発する人はけっこういると思うのですが、小浜さんも女性の社会進出を阻もうというのではないんですよね。 |
| 小浜 | 全然ない。 |
| 伏見 | たぶん、そこを誤解している人は多いと思います(笑)。 |
| 小浜 | 現在の多様化した職能の世界では、むしろ女性のほうが優れた能力を発揮する人はいるんじゃないでしょうか。例えば、公務員の採用試験なんかでは、女性のほうが必ず上位にいきますよね。だから、企業や行政などの採用の側が、能力のある人材なら男女問わないというのは、あってもいいでしょう。いったん出産退職すると、なかなか復帰できなかったりといった不利な社会的条件、社会体制を変えていくのがいい。 |
| 伏見 | ということは、小浜さんの議論は、女性にとってのよりよい労働条件を、といった話ですよね? |
| 小浜 | 最終的にはそこに帰着します。林道義さんなんかは、どちらかといえば専業主婦主軸論を展開されていますが、私は、今の時代にはそれはちょっと合わないと考えています。 |
| 伏見 | 夫のほうの育児休暇とかも実現していこうという方向にもなりますか? |
| 小浜 | それはいいと思います。行政は零歳児保育所を充実させることと、育児休暇制度を充実させることの両面の政策をとっていますが、これは論理的には矛盾することですね。まあ、仕方ないんですが、ただ、私の価値観からすると、後者に力点を置くほうがいい。 |
| 伏見 | ある意味で、非常に常識にそったお話ですよね(笑)。 |
| 小浜 | と思うんですが、なぜか、言説界ではフェミニズムと対決、とかいわれてしまう(笑)。 |
| 伏見 | なぜフェミニズムの人たちが過剰に性差というものに反発するのかというと、法律的制度的な平等が実現の後でもなお、社会的な女性差別が厳然と存在し、蔑視のようなものがあり続けるからでしょう。そうした現実はどうしてだと考えますか? |
| 小浜 | 制度がすぐに浸透するということは、一般的にいってもなかなかないことだと思います。あるいは、状況がそんなにきつくないならば、我慢してしまうという面もあります。女も我慢しているし、男も別の面で我慢しているわけです。 70年代以降、中流社会になったこともあって、自分たちの限られた許された条件の中で工夫してやっていけば、なんとか食べてはいけて、それでいいんじゃないという気分がある。今なんかだと、中高年の男性はかなりひどい状況に置かれているし、若者も困難さを抱えているけれど、それを政治的スローガンとか、思想的理念に集約していく方向にはいかない。みんなの目や心が、これこそが問題である!と一元化していくようなことにはならない多様な社会になっている。一方で、不満もくすぶってはいるので、フェミニズムのような思想が出てくる根拠もそれなりにわかるんだけど。ああした物言いでは、思想の表現としては駄目だと思う。 |
| 伏見 | さっきの僕の質問の答えは、人々が我慢してしまうから、ということですか。 |
| 小浜 | 我慢というよりは、人々が我慢できないというほどの実感を持てないからではないですか。 |
| 伏見 | これくらいなら手術しないでも、薬でごまかしておけばって。ということは、男社会がどうのとか、権力の支配がどうのとかではなくて、ある意味で、男も女もその痛みに対して共犯関係であると? |
| 小浜 | 完全に納得はしていないと思いますけどね。この前の衆議院議員選挙で女性の権利を一番掲げていた社民党が壊滅状態ですよね。結果論ですが、大衆の心の微妙な襞、生活の中での差別感や不満を掬いあげる思想表現になっていない。 |
| 伏見 | その話でいうと、僕はちゃんと社民党のマニフェストを読んでいないのですが(笑)、その中に「性的指向による差別をなくす」というようなポリシーが掲げられていたらしいんです。それがゲイコミュニティでも多少話題になっていましたが、だからといって、今、社民党に票を入れる気になるかというと、少なくとも僕はならなかった(笑)。もっと差し迫った問題にあの党が対処できるとはとても思えないし。 話をジェンダーに戻しますが、フェミニストの一部の人たちは差別解消が進まないことの原因を、60年代以降、性差そのものに見るようになったわけですね。ラディカル・フェミニズムは性差こそが差別の根源だ、とした。だけど、人々は性差ゆえに差別もされるが、性差ゆえの喜びも得ているわけです。性愛なんかまさに性差、性別ゆえのゲームですよね。その両面がある。そのあたりをどう考えたらいいのかというのが、僕の問題意識なんですが。 |
| 小浜 | 「アグネス論争」の頃は、ラディカル・フェミニズムの他に、マルクス主義フェミニズムとか、女性性を強調するエコロジカル・フェミニズムなどの諸派があって論争していた。それが90年代になると、エネルギーが衰えていって、性差別の根源は性差にあり、だから性差をなくせ、という単純なラディカル・フェミニズムの言説が地方行政の中などに浸透していった。その結果、現在のジェンダーフリー教育のようなことが行われるようになったわけです。これが政治的に力を持っているということは、裏を返せば、思想的な活気がなくなっている。 |
| 伏見 | 小浜さんは性差をなくすという方向に関しては……。 |
| 小浜 | それは不可能だと思いますね。さっき述べたように自然的なものを基盤にしてジェンダーを作ってきたという歴史がありますから。人間も自然を超えられないというところにたどり着くところはある。全部が全部ではないですよ。 |
| 伏見 | 性差、性別を解体すべしという理論自体が……。 |
| 小浜 | 間違っていると思います。 |
| 伏見 | そこのところをもう少し詳しくお聞きしたいんですが。間違っている根拠というのは? |
| 小浜 | 男がいて女がいるという、その違いを仲立ちにして、愛とか結婚とか出産とか人生の重要な事柄が展開していくわけですね。何のためにそれをなくす必要があるのか、なくすと今よりすごくよくなるのか。そのへんまでの想像力を持って主張しているフェミニストの人たちがいるのか疑問です。私は、それでは人間が平板になって面白くなくなる、と。 |
| 伏見 | 僕にはこの議論って突き詰めると、差別をなくすか、欲望をとるのか、という究極の選択になっているように思えるんですね。理論家は前者を望み、大衆は後者を選択している。言説の世界と生活世界が二極文化してしまっている。 |
| 小浜 | 社会的な差別というのが性差があるから生じるというのはそうなんですが、だから性差そのものをなくせというのは、単純で、幼稚。それは交通事故はよくないから車をなくせというのとほとんど同じでしょう。実際に、ジェンダーフリー教育の効果はなくて、街で見ていても、女性は女性らしい格好をして歩いている(笑)。 |
| 伏見 | 男という意匠、女という意匠を楽しむというゲームが続いている一方で、僕の子どもの頃のようにスポーツなら男は野球、女はバレーボールとか、着るものでも、男の子は明るい色の服は駄目とか、男女による区別は強固でしたが、そういう規範は段々なくなってきました。 |
| 小浜 | それは政治的な成果というよりは、文化が爛熟すると必然的に生じる多様性ですね。 |
| 伏見 | 僕は、社会は性別二元制を基盤にしてもいいと思うし、ジェンダーの非対称性はあってもいいと思うのですが、そこで生じる過度な不満に関しては解消すべきだと思うんです。いやなものはなくしていくべきだと。 |
| 小浜 | 私も同じです。がちがちの枠組みがあることによって、ある人たちが、どう考えても客観的に不幸な目にあっているとすれば、それはなくしていけばいいと思います。 ただ、男らしさ/女らしさよりも自分らしさ、ということをジェンダーフリー推進者の人たちはいうんだけど、そうではないんです。それだと男らしさ/女らしさということが、自分らしさと矛盾対立していることになる。そうではなくて、男らしさを通して自分らしさ、女らしさを通して自分らしさというのが初めて実現されるんですよ。絶対とはいえませんが。自分らしさという水準と、男らしさとか女らしさの具体的な水準は違う。それは二項対立にはならない。 |
| 伏見 | 自分らしさというものが、男らしさやナントカらしさ……の集積だといういいかたもできますよね。じゃあ小浜さん自身は、男らしさ/女らしさで解消すべき点はどこだと思いますか。 |
| 小浜 | 挙げていくと細かくなりますが、男だったら、威張るところとか、いわれなき権威主義。それから、自分が産ませた子どものめんどうを全部女房任せにする無責任な男がまだまだ多い。女らしさのほうでは、同性間でのぐちゃぐちゃした摩擦、葛藤。物事を政治的にまとめていくことの未熟さ……。 |
| 伏見 | なんか僕、両方とも自分に色濃くあるので、どうしようかと思っちゃいました(笑)。 |
| 伏見 | 学校というのは政治的、社会的な領域に属する場なんですか。 |
| 小浜 | 公的な社会です。実際の社会のシュミレーションをする場ですね。 |
| 伏見 | そういう場でのジェンダー、男らしさ/女らしさというものの取り扱いは、どうあるべきだと考えますか。 |
| 小浜 | 教育の場でどっちかに振るみたいなことをする必要はないのではないか。かえって、多感な時期にそういうことをいわない、ということのほうが大切なような気がします。 |
| 伏見 | 僕が中学生とかのときはまだ男女で家庭科とか技術科に授業が分けられていて、お料理をしたかった僕は、すごくいやだったんですね。そういう区別っていうのは、小浜さん的にはどうなんですか。 |
| 小浜 | 私の教育観というのはそもそも技能教育というのは、民間や家庭で担えというものです。そうすれば公教育の場で、女性は料理、男は大工みたいな枠にわざわざはめなくてすむ。それが前提ですが、その枠がかえられないのならば、男女で同じにするのはいいんじゃないですか。男女の違いによる偏見がなくなっていくのはいい。 |
| 伏見 | としたら、濃淡はあるにせよ、偏見による男女の差異をなくしていこうという意味では、小浜さんもジェンダーフリー論者といえなくないんじゃないですか。 |
| 小浜 | 極端や硬直した固定観念みたいのは、よくない。私はよきリベラリストでありたいと思ってますから(笑)。 |
| 伏見 | ならば、小浜さんがジェンダーフリーを掲げている人たちのことを、思わず「ファシスト!」と呼んでみたくなる部分はどのへんなのでしょう?(笑) |
| 小浜 | 具体的なジェンダーフリー教育の現場でね、男でも女でもなく、カタツムリみたいに雌雄の区別がないほうがいいんだみたいなイデオロギーを、まだ成熟していない子どもに対して注入するというところ。更衣室をいっしょにしちゃったり、関西方面の某県では、正しい男女のありようを試すチェックリストを子どもにやらせていたりしますよね。そういうやり方はファシスト的です(笑)。 |
| 伏見 | 教育の現場で、男女の違いが強調されるのはジェンダー化を推し進めることになるからと、「くん」「さん」の区別をつけて呼ぶことをやめようと主張している人もいるみたいですね。僕もそこまではどんなものかと。 |
| 小浜 | それもさっきの話と同様で、区別が強調されることによってよい面、面白くなる面もあるし、抑圧に働く面もある。両面がある。極端はよくない、中庸であれというのが、私の考えです。 |
| 伏見 | 「ファシスト」の次は「露出狂」の話なんですが(笑)、小浜さんは、「明るく性を語ろう」などと性教育を実践している人のことを「露出狂」といって批判されていますが(笑)。性教育というのも学校教育の中ではあまりすべきではないとお考えなんですよね。 |
| 小浜 | そう思ってます。人間の文化は基本的に性的なことと、非性的なことを分けて、前者を隠された、プライベートな領域で行い、非性的な事柄を集団で公の場で行うという秩序で成り立っている。どうしてそうなのかといえば、それは生物学的な条件に還元されて、私たちが発情期を失っているという理由です。 人が複数でする行動、協同というのは、労働と、あとは性愛行動で、これらは相容れないものです。二律背反。で、発情期を失った人間の性的な乱脈さ――いつでもどこでも誰ともセックスする可能性があること――が労働にとって破壊的な影響を与える。基本はそこにある。 そこに性教育に話をつなげると、公開の場で、しかも性を意識する恥ずかしいさかりの子たちに対して、それをして何になるのか。性教育をすることによって何がよくなるかという理念がはっきりしていないのでは。性教育の先進国を見るかぎり、それが性犯罪防止に役立ったというデータもない。 ただ性に関する情報がまったくいらないかといえば、例えばエイズの問題なんかは別でしょう。それは性知識を持っていることを前提とした保健衛生教育ですればいい。それは必要。 |
| 伏見 | 例えば、予期せぬ妊娠を避けるために学校で教えておくという考え方は? それは一つの理念だと思うのですが。 |
| 小浜 | その理念はありうるかもしれませんが、何もそれを公開の場でやらなくてもいいと思います。メディアなどを通して自然に知っていくことのほうが多いわけですし。あと、親がそれとなく、ちょっと顔を横に向けながらでも(笑)、子どもに教えるというのでいいのでは。 |
| 伏見 | 日本性教育協会という場でそういわれてしまっても困るのですが(笑)。 |
| 小浜 | 10年くらい前になるでしょうか。コールドウェルの短編で「ストロベリー・シーズン」というなかなかいい作品があって、メジャーな高校の英語の教科書に載っていました。それがいつのまにか消えてなくなったんです。なぜかというと、女性団体が性差別表現があるからと文部省に圧力をかけた。 どういう作品なのかというと、1920年代くらいのアメリカ南部の牧歌的な農村を舞台にした話で、そこではイチゴ摘みのシーズンになると、男の子も女の子もかり出される。女の子はスカート姿で腰をかがめて摘むので、足がちょっとセクシーに見えたりする。思春期ちょっと前の子たちが働いているんだけど、男の子たちはいたずらで、人気のある女の子の作業着の襟もとからイチゴを入れて、それを叩くんですよ。そうすると、イチゴがつぶれて服に染み出してくる。女の子はキャーと嫌がりながらも、まんざらうれしくないわけでもない。 あるとき、その中のアイドルの女の子のことを主人公の男の子が好きになって、なんとか彼女と二人だけで逢いたいと、早朝にイチゴ摘みに行く。すると、まさに彼女がそこにいた。でも、男の子はうまく話しかけられずに、イチゴつぶしをやっちゃうんですよ、まだ幼いわけですから。だけど、女の子は、いつものように喜ぶことはなく、泣き出してしまった。男の子はそこで初めて、個別の男と女の付き合いというのは、いつもの集団同士のやり方とは違うんだということに気付く。これは私の解釈ですけどね。それで彼はいっしょうけんめい彼女に謝って、結局、初めてのキスもする。そして家の角までいっしょに帰って、別れる。というなかなかいい話なんです。なんでこれが性差別なのか? |
| 伏見 | よくわかりません。 |
| 小浜 | イチゴつぶしは破瓜の暗喩であり、男性が女性に暴力的になるシーンが入っているのはよくない、という論理なんですね。でも、私は全然そういうふうには読まないし、仮にそういう暗喩が入っていたからって問題だとは思わない。イチゴつぶしの悪ガキどものいたずらは、いってみれば、児童期における男集団と女集団の駆け引きで、でも思春期になって本当に異性を好きになったときには、そういうやりかたでは駄目なんだということ、そんな幼稚な段階を卒業して、一人で相手に向かっていくんだということを教えてくれる物語なんです。ちょっとした文学読みなら、この作品のよさがそこにあるのがわかる。 例えばこういう作品が英語の教科書に載っていることで、それを読んだ一人一人が、性的に大人になるというのはこういうことなんだと思えばいい。私が考える性教育の理念というのはそういうことなんですね。 |
| 伏見 | いいお話の後でなんですが(笑)、僕は性教育というのも学校でやったほうがいいと考えてます。効果がどの程度あるかは別ですが。エイズとか性感染症の問題ってなかなか普通には正確な知識って知り得ないし、からだの機能のことも親にはかえって聞きづらい。メディアの情報って偏っているし、接するほうも好きなところしかチョイスしないから、人生で一度くらいはちゃんとトータルで学ぶ機会があってもいいと思うんです。 |
| 小浜 | ブルドッグって雄はインポで、牝のおねえさんに手ほどきしてもらえないとセックスできないんですね。 なんでこんなことをいうかというと、公教育で性教育をしないと、男女の性愛感情の機微や性機能がわからないとすれば、人間ってなんかブルドッグみたいな悲しいところに落ち込んじゃったような気がしてくるんですね。 |
| 伏見 | (笑)今日は性教育に対して別の視点からのご批判をいただき、とても勉強になりました。 |