小学校低学年の頃と記憶するが、柱にもたれてめそめそ泣いているところを母に発見されてしまい、どうしたのと聞かれた。私は人がいつか死んでしまうということを考えていたら悲しくってたまらなくなったと正直に答えた。母は一瞬沈黙し、ややあってから「そう、そんなことを考えていたの」と、感に堪えたように漏らした。それから何か慰めてもらったような気がする。しかしそれがどういう言葉であったか憶えていない。
この月並みな感傷の露出は、その後私のなかで抑えられていたようだが、親になったとき、自分の子どもがもっと早い年齢で同じような表現をしたのに接し、これはきちんと考えてみなくてはならない問題だという思いを強くした。そしてそれがきっかけで、死についての本を書こうという考えがだんだん熟していった。何冊かの本を読んだ。ハイデガーがこの問題をいちばん突き詰めていると感じたが、不満も残った。それを一言で言うと、死をめぐる彼の考察では、人が死という確実にやってくる「可能性」を直視しないような配慮を不断に張り巡らせている状況を「頽落」と呼んで、直視する態度とのあいだに人間的な価値の「審級」を置いているように思えてならない点である。「頽落」は日常性をふつうに生きることとぴったり重なるから、それを別のある態度(彼はこれを「本来性」と呼ぶ)よりも低いものと見なすような傾向に納得できなかったのである。
そんな折り、モンテーニュの『随想録』のなかに次の言葉を見つけ、思わず膝を打った。「死はお前たちの創造の条件であり、お前たちの一部分である」「もしお前たちが死をもたないならば、それを与えられなかったことで、お前たちはたえず私を呪うであろう」(第一巻二十章)。ここでモンテーニュが「私」と言っているのは、「自然」のことである。自然が人間に死を与えなかったとしたらどうなるか。二つの可能性が考えられる。(1)業苦としての生が永遠に続く。(2)未来を気にする必要がなくなるから、動物がやっているよりも長期にわたるような何らの「企て」をなすこともできない。
おそらくモンテーニュが意識的に考えていたのは、(1)のニュアンスのほうである。しかしむしろ私は、彼が「死はお前たちの創造の条件である」と言っている直観の正しさのほうに関心を引きつけられ、そこには(2)のような論理が含まれていると考えた。人間は時間の無限性を知り、そのことによって自己の有限性を自覚できる唯一の動物だが、この有限性の自覚を通してこそ、ふつうに生きる過程のなかに、さまざまな企ての楔を打ち込むことができ、また、豊かな情緒世界を開くことができるのにちがいない……。この思想は、死への恐怖や別れの悲しみを少しも逓減させてはくれないが、死と常に隣り合わせである私たちの生をいくらかは明るみに向かって輪郭鮮やかなものとするはずである。