ノーベル物理学賞に小柴昌俊氏、化学賞に田中耕一氏と、日本人にダブル受賞が授与された。何ともめでたいことである。まずはお二人の壮挙を素直に喜びたい。
それはそれとして、ひとつだけ気になることがある。この種のニュースでは渦中の人の生き方、暮らしぶり、人生観などにまつわるエピソードを伝える必要があるため、マスコミはある一面だけを強調するきらいがあって、それはそれで当然のこととしても、いつのまにかその強調された話題が一人歩きして、おかしな考え方に短絡しかねない。
と思っていたら、案の定、そういう空気がメディアを通して広がったようだ。小柴氏の、「東大をビリで卒業した」という事実がそれである。たとえば朝日新聞の「天声人語」では、早速この話題を取り上げて、この種の空気の広がりに先鞭をつけている。「小柴さんが今春の東大卒業式の祝辞でこんな話を披露した。自分の結婚式でのことだ。東大嫌いで知られる物理学者の故武谷三男氏がこういうあいさつをしたそうだ。『今日の婿さんは東大を出たけれどビリで出たからまだいくらかの見込みはある』。小柴さんは自分の卒業時の成績表を公表して武谷氏の話を裏付けた」(一〇月一〇日付) これ自体は罪のない記述で、まあ、あえて目くじらを立ててひねくれた詮議立てをするほどのことではない。しかし、こと「天声人語」に限らず、「ビリ」がノーベル賞を取るといったことがことさら話題として広がるだけの値打ちがあると踏むメディアの一種の「勘所」の内には、なんだか多くの人のなかに巣くっているあまり健全とはいえない心のありように媚びてくるものがありはしないかと、やっぱりひねくれた詮議立てをしたくなってくるのである。
この種の「話題」化の力学は、実は昔から相も変わらぬパターンとなっている。エジソンは学校をさぼってばかりいることで有名だった、アインシュタインは成績が悪かった、といった逆説的なエピソードのたぐいだ。一体どんな心理がはたらいて、この種の「話題」を強く生き残らせるのだろうか。
いうまでもなく、エジソンやアインシュタインのこうしたエピソードが意味をもつのは、その偉大な業績がまず衆知の情報として与えられていることが前提である。天才や偉人の生涯をその偉大な業績から逆にたどっていくと、あたかも天才や偉人ならではの、俗人からは逸脱したような事跡にぶつかる。小柴氏の場合もそれは同じで、ノーベル賞を取ったという偉大な「結果」をもう私たちは知ってしまっているので、だからこそ「ビリだった」という事実が大きくクローズアップされるのである。
知的ヒーローのなかに「必ずしも知的に優秀とはいえなかった」と思える点を発見するのがなぜか人々は好きである。それにはたぶん二つの理由がある。一つは、大多数の人が抱えている学歴コンプレックスという切ない抑圧感を一瞬振り払ってくれるかのような幻想を与えること、そしてもう一つは、既成の枠に囚われない「個性一般」というものがだれにも初めからひとしなみに与えられていて、それが最終的には勝負を決めるのだという論理が一瞬実証されたかのように感じられること、である。
しかし、もっと真実を冷厳に直視しようではないか。特例はいつも特例でしかなく、まずその特例のほうからたどれば、多少の逸脱的な事実に出会うことは別に不思議ではない。だからといって、「だれでもやればできる」などというヘンな一般化の論理が保証されるはずはないのだ。「東大ではビリだった」小柴氏も、東大に合格しているではないか。大学卒業時の成績がビリでも、それから凡人にはとうてい及ばない厖大な努力を傾注したに決まっているではないか。レベルが違うのだよ、レベルが。
この際だれもが感じていても公式的には口にしないことをあえていわせていただくが、たとえば偏差値四〇で入学できるP大学出身者からノーベル物理学賞受賞者が出ることは、ほとんど皆無といってよい。私は常日頃、普通の能力を持って普通に努力し、普通の人生を送る大多数の人々のための地道なスキル養成の志向を喪失した現在の「ゆるみ教育」の風潮を憂慮している。ノーベル賞騒ぎが、この傾向に拍車をかけなければよいことを祈るのみである。
むろん、それぞれの人がそれぞれの立場で夢や励みをもつことは大切だが、一方では、もって生まれた優れた才能が並はずれた意欲や努力と結びついてこそ、偉大な業績が成し遂げられるのだというこの世の鉄則を忘れてはならない。昔の人が吐いた名言を思い起こそう。「瓜の蔓には茄子はならぬ」「天才とは努力する力である」。