小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:Voice
(2002年11月号)

「責任」概念について

  前号で「デマメール」のことを書いてから、「責任」とはそもそもどういうことかという疑問がしばしば脳裏をかすめるようになった。この言葉は、複雑なルールと信頼関係の網の目として成立している現代社会では、何かトラブルが発生するたびにやたらと多用されるけれども、じつはあまりきちんと検討されたことがない概念である。

  たとえば東京電力の原子力発電所でいくつもの「ひび隠し」が発覚し、幹部数名が「引責辞任」した。その後の報道によると、東電は「ひび隠し」の報告を内々には受けていたが、詳しい実態を確認できなかったために、推進中のプルサーマル計画をただちに凍結するわけにはいかないものの、住民や国民の信頼を失うことを懸念して、水面下で新潟県や資源エネルギー庁に凍結をはたらきかけていたこと、また「ひび隠し」の一部には、認可申請の不必要な修理について、認可までに数年かかると回答した旧通産省の誤指導も関係していたこと、経産省原子力安全・保安院は、東電に対して刑事告発や行政処分は行わないと決定したこと、などが判明している(九月一五日現在)。この事件は、電力業界全体、発電所や再処理工場がある地元などにとてつもない衝撃と波紋を巻き起こしている。実施中・計画中の原子力政策全体に大きくブレーキがかかってしまうからだ。これまでにかけた建設コストの回収は? 地元や国民の信頼回復の手だては? 日本経済への今後の影響は?

  やれやれ、である。ちょっと報道に接した限りでも、思わずため息が出るような事態だ。こういう厖大な広がりをもつ具体的な事態に、いったいだれが、どんなかたちの行動や態度を示せば「責任」をとったことになるのか。いわゆる「反対派」は、国の原子力政策そのものが誤りだと唱えつづければすむかも知れないが、そんな簡単ではないことは、ずぶの素人でもわかる。また、誤解を招きやすい言い方になるが、ひびを隠したことそのものの「悪」だけを鬼の首でも取ったように追及すればよいのかという疑問も湧く。そして同時に、この種のことがもつ「悪者探し」の難しさそれ自体は、じつは、小さな生活局面から大きな政治社会のできごとに至るまで、程度の差はあれ、だいたい同じではないかという直観もはたらく。では、その「難しさ」の構造をどう読み解いたらよいのか。

  ここでは、近代社会が了解している「責任」という概念について、とりあえず原則的なことだけをいくつかメモしておきたい。

  1. 「責任」は、事実上、私たちが人間関係の流れの過程に、ある行為を投げ入れた瞬間に発生する。しかしある行為が責任を問われるかどうかの境界は、その行為者の身分や役割や権力の範囲に応じてあらかじめ漠然と想定されているので、行為ははじめからまったく自由ということはあり得ず、その影響が予想できるような予想できないような、曖昧な規制を受けている。この曖昧な規制から来る不安を引き受けるのでないと、私たちはどんな行為も決断できない。逆に「何もしない責任」を問われることもある。

  2. 「責任」には、「法的責任」と「政治的責任」と「道徳的責任」の三つが考えられる。しかし行為は個人のものであれ組織のものであれ、そのつど一つに絞って捉えなくてはならないから、事実上は、一つの行為にこの三つの概念が濃淡をもって重なり合う。

  3. 法的責任を問う場合、私たちは、行為者の「意」を「うっかり」か「わざと」かの二つに分けて判断する。前者では「過失責任」、後者では「犯罪」として対処する。しかし「意」はあらかじめ明らかなものではないから、両者の境界も曖昧である。私たちはあくまで結果からさかのぼって、あえて仕方なくそのように切り分けるのである。

  4. 政治的責任は、一定の役割や権力の枠内に沿ったある行為の効果や影響力の大きさによって測られ、失敗が確認されたときには、事後処理の合理的な適切さによってまっとうされる。「引責辞任」は日本人の得意技(ハラキリ)だが、当事者の処理能力の無能が確認されるのでない限り、引責辞任をもって政治的責任をとったと見なす習慣は、私たちみんなが改めるべきだと思う。

  5. 道徳的責任は、何をしたかということよりも、当事者の誠実さを確認できるかどうかにかかっている。役割にふさわしい日頃の態度、改悛の情の表現の仕方など。しかしこれまた「画定」は難しい。なお「引責辞任」は本来、こちらに属するものだろう。

  いずれにせよ、私たちは責任を云々するとき、連係プレーという本来個別には切り離せない曖昧な流れのどこかに、やむなく明確な固定点としての亀裂を入れるのだということをよくよく自覚しておいた方がよい。責任を言い立てる者の責任もあり得るのだ。