私はパソコンを使い始めて一年ちょっとになるが、原稿書きとメール交換と、ときどき決まったホームページを覗く以外にはほとんどいじったことがない。齢五十を超えた自分の環境に燎原の火のごとく広がったこのとんでもなく複雑精妙な代物のからくりを、しっかりマスターしてやろうなどという気は今さらなく、使って便利と感じられるところだけ知っていれば十分と思っていた。しかしコンピュータ・ウィルスが猛威を振るっているという情報が各所から流れてくるので、さすがに警戒感を高めてはいた。
そんな折り、ある信頼のおける知人から次のようなメールが入った。いわく、「テディベア」なる悪質なウィルスが、メールの送受信にかかわらず、アドレス帳を通して広がっており、感染後二週間でシステムを決定的に破壊するので、これこれの手順で検索して、見つかったら削除し、すべてのアドレスに通知してほしい。私はつい信用し、言われたとおりに素早く実行した。ところが数十分後に、複数の筋から、これがまったくのデマメールであるとの情報を得た。私に知らせてくれた人もだまされていたのだ。今度はあわててそのことを皆さんに知らせ、削除した自分のファイルを復元しなくてはならなかった(ご迷惑をかけた方たちに、この場を借りて改めてお詫び申し上げます)。聞けば「テディベア・ウィルス」情報がデマであることは、すでに二ヶ月前から一部では知れ渡っていたとのこと。ちなみにテディベアのアイコンは、はじめからウィンドウズの所定のファイル(jdbgmgr.exe)についているのだそうで、まだご存じでない読者は、デマメールにご用心。それにしても、素人の悲しさよ。
ところでなぜこの話題を取り上げたのかというと、自分の迂闊さはさておき、人々の不安をあおるためだけのこのいたずらが、なかなか人間社会というものの成り立ちをよくわきまえた巧妙な手口を使っているということを反省させられたからだ。
いうまでもなく、人間の社会は、言葉を仲立ちとした信頼・信用のネットワークとして存在している。ところが言葉というものは、奇怪な性格を持っていて、真実を伝えることもできれば嘘を伝えることもできる。いや、実はこういったのでは言葉の本質を捉えたことにはならない。言葉は、その表現された実態を形式としてみる限りでは、真実を伝えているのでもなければ嘘を伝えているのでもない。それは、発語者の、客観的にはいまだ不明な、ある意図の表出(自己投企)であるという以外のことを示してはいず、何ら真偽の尺度を自分自身の中にもっていないのである。
私たちは、このことを実感として知らないわけではない。にもかかわらず、言語文化を生きる以外に自分の生を構成できないので、ある言葉が自分にとって肯定的な意味や価値をもつものであるかどうかを、たえず形式としての言葉以外のさまざまな手段によって判断しなくてはならない不安を抱えている。それらの手段とは、学習されたものとしての論理的な整合性、発語者との信頼関係、言葉が発せられた状況と言葉自身との密着感、発語者の言葉の発し方に見られる切実感、等々である。しかし厳密に言えば、これらの判断尺度もまた、必ずしもはっきり白黒をつけられるものではない。そこで現実には私たちは、これらの条件を複合的に勘案しながら、蓋然的に真実らしいと感じられる言葉にとりあえず信をおきつつ、互いの社会的関係を作っていくほかない。真実とはもともとそのつど虚構していくものだ。
デマメールは、人間のこの逃れられない事態をうまく突いている。この試みが成功するのは、社会人がおかれた二つの不可避的な条件を逆用しているからである。一つは、特定または不特定の他者の善意を信じなければ社会が成り立たないということ。そしてもう一つは、世の中には(ウィルスをまき散らすような)悪いやつがいるという警戒心から自由になれないということ。私たちはいわば、この二つの矛盾する命題の「間」で生きている。だからこそまた、「正義」とか「責任」とかいう概念も画定しがたく、被害者が同時に加害者にもなりうるような混乱した事態も生じうるのだ。
デマメールは、かつての「流言飛語」や「不幸の手紙」や「ねずみ講」などと類似のパターンである。そこには、いま述べたように、あらゆる人間社会が「言葉の両義的性格」を基礎として成り立っているという構造が透けて見える。ただかつてと違っているのは、情報の伝わるスピードのすごさと広がりの巨大さである。私たちは、すでに抱えてしまったこの自縄自縛的な文化特性をどうすればうまく克服できるだろうか。