最近『模範六法』(三省堂版)をパラパラめくる機会がある。条文ごとに判例が併記されているので、ことに「刑法」など、おもしろくて思わずつり込まれてしまう。
たとえば次の例などはどうであろうか。「被害者の身辺近くで大太鼓、鉦などを連打し、頭脳の感覚が鈍り、意識朦朧たる気分を与え、または脳貧血を起こさせる程度に至らせた場合は、本罪(第二八〇条)の暴行にあたる。」(最高裁判決昭和二九年八月二〇日)
なるほど、身体に接触して傷害を加えなくても、いやがらせで相手の身体に異常をきたさせただけで暴行罪は成立するのか。となると、たとえば残酷なものを見せた結果、相手を継続的な食欲不振に陥らせたり、口臭によって相手にいつも吐き気を催させたりするだけでも、暴行罪に問われる可能性がある。
こんな例もある。「被害者が、共犯者の一人によって強姦された後、さらに他の共犯者らに強姦されることの危険を感じ、詐言を用いてその場を逃れ、暗夜人里離れた地理不案内な田舎道を数百メートル逃走し救助を求めるに際し、転倒などして負傷した場合には、強姦致傷罪の成立を妨げない。」(最高裁決定昭和四六年九月二二日)
「成立を妨げない」とあるから成立したのかどうかわからない(たぶん成立させたのだろう)が、こういう屋上屋を架したような苦しい解釈をして「強姦致傷罪」を適用するくらいなら、被害者に多大な恐怖を与えた他の共犯者を「強姦未遂罪」として重く罰すればすむ話ではないのかな。ちなみに「未遂」は「刑を減軽することができる」(第四三条)とあるだけで「減軽する」とは規定されていないから、実行犯並みの処罰が可能なはずだ。
これらを読んでいてまず抱くのは、成文化された「法」というルールの体系はしょせん、とりあえずの網掛け(マニュアル・ハンドブック)であって、その時々の関係者のやりとりを背負った運用責任者(裁定者)の主体的な判断こそが決定的だという月並みな感想である。かの麻原某も、裁定者の主体的な判断次第によって、無罪にもなれば死刑にもなりうる。そして、その主体的な判断を規定するのは、法理そのものであるよりも、むしろ裁定者自身の「情意」を動かすにたる、彼を取り巻く直接、間接の諸状況である。被害者の遺族感情、しでかしたことの社会的影響の甚大さ、国民世論、被告の態度が与える心証、実行犯たちが受けた判決とのバランス、等々。
次に抱くのは、法の体系というのは少しも美しく整序されたものではなく、その成立過程を想像すると、あたかも土壌の有り様や変化にそのつど適応しようとして、必死にかつ場当たり的に根を張りめぐらしては、お互いに重なり合っていく樹木群の成長の涙ぐましい姿のようなものだという印象である。それは、人間が言葉によってこの現実世界を切り分けていくことの制約と限界を最も象徴している。まあ、言語というものは、本質上、そうした無力さと効力との表裏一体性を免れないのかも知れない。でも「あきらめは禁物」と心得よう。
「あきらめは禁物」の一例として、強姦罪にこだわるのだが、第一七七条の次の条文などは、もうちょっと何とかならないのかと思う。「暴行または脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、二年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。」うーむ。
まず素直に読むと、十三歳未満の女子の場合も「同様」なら、何のために年齢の区別をしたのか、と一瞬思ってしまう。しかしこれは、よく玩味すると、「十三歳未満の場合は、たとえ暴行や脅迫の事実がなく、女子が肉体関係を結ぶことに合意したとしても」という意味だとわかる。十三歳未満の女子と性交することは無条件に禁じられているのだ。だったら、そう明記すればいいじゃないかと思うのだが。
もう一つ、被害者を「女子」とはっきりうたっている点であるが、これについては、複雑な感慨がわき起こる。私は杓子定規な平等論者ではないので、ここに人間の「性差」が明白に反映されている事実に健全さを感じこそすれ、憲法で規定した「男女の本質的平等」に反するなどと異を唱える気はさらさらない。女子が男子を強姦すること(男子が女子に強姦されたと感じて、それを親告すること)は普通の状況ではほとんど考えられないからだ。しかし反面、同性愛の男子が年端の行かない男子を強姦することは大いにあり得る。やはり「女子」という規定は削除するか、「男女」とすべきではないか。
グロテスクなバベルの塔のようになった法体系を一度一掃し、「神々」が知性を結集して、美しく整序された形式にしてくれないものかと思う。