ひと頃下火になったかに見えた「夫婦別姓論議」が再燃しつつあるようだ。国会審議が何度か見送られてきた経緯があるので、「夫婦別姓」実現化論者たちが、2001年8月に公表された内閣府の世論調査結果をタテにして、一気に巻き返しを図ろうとしたのがそのきっかけであるらしい。この世論調査結果について、朝日新聞など大メディアが、「別姓導入賛成派が初めて反対派を上回った」と報じた。私は迂闊にして当時の記事の詳細を手にしていないが、これについては、冷静で緻密な歴史研究で名高い秦郁彦氏が、すでにそのからくりのインチキ性を鮮やかに見抜いた論を書いている(『諸君!』2002年4月号)。私の手元にいま財務省印刷局発行の『日本の女性データバンク』(四訂版、2001年11月)という簡便な資料があるが、これを見ただけでも、「賛成派が反対派を上回った」はまったくの虚報であることがわかる。
別姓法制化に対する賛否の内訳は次のようになっている。
| (1) 現在の法律を改める必要はない | 29.9 % |
|---|---|
| (2) 法律を改めてもかまわない | 42.1 % |
| (3) 旧姓を通称として使えるよう法律を改める | 23.0 % |
| (4) わからない | 5.0 % |
この中で、(1)は明確な反対派で、これが約三割を占める。次に問題の(2)であるが、「改めるべきだ」といっているのではないのであるから、明確な「別姓賛成派」あるいは「推進派」とはまったくいえず、選択的別姓制度を「容認してもよい」という非主体的な態度表明が大きな割合を占めると見なすことができる。さらに(3)は、高市早苗衆議院議員らが別姓法制化に対抗して、戸籍制度を改めずこれまでどおり同姓として届け出ることにするが、仕事場などではそのままワーキングネームを使えるようにすべきだ(それで十分だ)という案を提出しているのと軌を一にするものであるから、明らかに夫婦別姓の制度化には反対の立場と見てよい。というのは、通称使用が法律で認められるなら、別姓論者の論拠の一角(結婚して姓が変わると、仕事の面その他で女性が不利になるから別姓を認めるべきだという考え)は大きくくずれるからである。
(1)と(3)を合計しただけでも52.9%となり、(2)を上回るが、いま述べたように、(2)のなかには、「私は同姓だし同姓でいいと思っている」または「私は結婚したら同姓を選ぶ」が、「世の中にはいろんな人がいるから、別姓を選ぶ人がいてもべつにいいんじゃない」という考えの人が相当数含まれるはずである。この事実を加味するなら、賛成派が反対派を上回ったなどという判断が、いかに政治的なプロパガンダを目的とした「ためにする」判断でしかないかがわかろうというものだ。
この種の狡猾な「国民だまし」の動き(じつはメディアの煽動効果を利用しただけの杜撰きわまりない動き)は、進歩派を気取ったメディアや行政機関、教育界などを中心にして最近あちこちで見られる。
たとえば幼児虐待がマスコミで話題になると、母子密着による母親の内閉的な情緒のあり方こそが諸悪の根源であるという「仮想敵」を早速つくりあげ、母親は早く子どもを保育園にあずけて働きに出るのがよいなどという考え方を強引に一般化させようとする。しかし、ここ三十年ばかりの間、既婚女性に占める専業主婦の割合は増えているにもかかわらず、幼児虐待を最も象徴する「嬰児殺」は、半世紀前に比べてなんと十分の一に減っているのである。
また、「性差別の根源はジェンダー(社会的性差)にあり」なる粗雑な思想にもとづいて、「男らしさ、女らしさ」を頭から否定する「ジェンダーフリー」教育なるものが、いくつもの自治体で行われている。だが、九八年の国立社会保障・人口問題研究所による調査では、「男の子は男の子らしく、女の子は女の子らしく」に賛成と答えた人の割合は、七六%の高率に上っている。ジェンダーフリー教育を推進する人々は、一般大衆よりも愚かである。社会的な性差別をなくすことと、男女の性差を認めることとはけっして矛盾しないし、性差の存在は、両性が幸福な結合を果たすことにとって不可欠な媒介条件の意味をもつという「常識」がまるでわかっていないのである。
さらに、性教育を推進してきた一部の団体は、恥ずかしさを人一倍感じる年齢の子どもたちが集まる学校という公的な場で、「性を明るく正しく語ろう」などと謳いあげ、恥ずかしげもなく「ペニス」や「ヴァギナ」を連発し、「父親にマスターベーションのやり方を教えてもらいましょう」とまで説いているそうである。正気の沙汰とは思えない。聞いている親も子どもたちも、ほとんどが「何かおかしい、やめてほしい」と感じているにもかかわらず、ある種の権威の衣をまとってあらわれる対象に公然と異議を対置するには、勇気と力が不足している。性教育推進者たちには、人間の性愛の領域では公共的な社会に対して「隠微な秘事」という領分を前提としてこそ、その内部における独特な昂揚感情も確保されるのだし、そうした棲み分け感覚によってこそ人間の重層的な文化秩序も成り立つのだということがまったく見えていない。彼らは、羞恥心という最も人間的な感覚の意味を理解しない非常識な「露出狂人種」というほかはない。
これらを領導しているのは、すべて「個としての自由・自立」なる理念を単純に信仰箇条にしているフェミニズムの思想であるが、のちに述べるように、彼らは「個としての自由・自立」という近代的概念が「私的なわがままを認めてもらうこと」と等しいという根本的な誤解を犯しているし、またそのことが、恐るべき全体主義社会(かつての戦争時のそれにも通ずるような)への重大な導きの一歩となることを少しも自覚していない。
話を夫婦別姓問題に戻そう。私はかつてこの問題についてある本の中で論じたことがある(『人生に向き合うための思想・入門』洋泉社、一九九六年)。それをいま踏襲して自分の見解を述べるが、微妙に変化したところもあるので、その点については後述する。
夫婦別姓論者(いわゆるフェミニスト)の論拠は、だいたい次の三つに絞られる。
これに対して、別姓反対論者(いわゆる保守派)の論拠は、別姓論の背後にあるのは個人こそ最高の原理だとする誤った思想であり、安易にこれを許すと、社会を支える根幹である「古き良き」家族の絆がただでさえ危うくなっているいま、やがては崩壊に導かれる、という論点におおむね集約される。
このように、別姓論の賛否は、個人主義VS共同体主義というパターンに対応するが、じつはこの議論の前提はもっと入り組んでいるので、議論の参加者は、少なくとも次の基礎事実を踏まえておく必要がある。
第一に、現行民法では、夫の姓を名乗れといっているのではなく夫婦どちらかの姓を名乗れといっているのであって、これは旧民法をいっそう近代化(男女平等化)したものだが、これまでの習慣によって九割以上が妻方の改姓という現象としてあらわれているに過ぎない。
第二に、今のところ別姓論者は、別姓選択の余地を与えよといっているのであって、すべて別姓にすべきだと訴えているのではない。
第三に、戸籍に姓の登録が義務づけられたのは明治以降のことで、それまでは姓を持っているのは全国民の六%にすぎなかった。武家社会では別姓が普通であったし、儒教的伝統を守る中国や韓国ではいまでも別姓である。つまり現行の制度は古い「家」制度の伝統を守るものなのではなく、むしろそれに代えて、夫婦一体性の理念を強調したすぐれて近代的な制度なのである。
したがって第四に、別姓が実現すると、フェミニズムが期待しているような「家」からの個人の解放が実現するよりも、一人娘を嫁がせた家の「家名」が途絶えてしまうことを厭う古い「家」意識の持ち主を喜ばせる公算が大きい。
第五に、なぜ姓が個人のアイデンティティにとって重要な問題に見えるかには、特殊日本的な事情が絡んでいる。その事情とは、我が国では多少とも公的な関係では、個人を呼ぶのに姓で呼ぶのが通例となっているということである。欧米のように少し親しくなればすぐにファーストネームで、というようにはなっていない。そのため姓は、「家」やファミリー全体の呼称であると同時に、個人の社会的アイデンティティを象徴するという二重性を背負っている。
以上のことを考えると、別姓論議自体が、たいへんよじれていることがわかる。この対立は、表層で漠然とイメージされているように、進歩的個人主義VS保守的共同体主義なのではない。夫婦同姓は、近代家族の一体性を尊重する思想の重要な象徴であって、古い「家」制度の名残などではないのだから(事実上は、夫側の姓が生き残ることで、それが守られるという側面も無視できないが)、別姓賛成者も反対者も、そのことをよく自覚して、自分がどういう思想的立場に立つのかを明瞭にする必要がある。
フェミニストたちは、別姓が個人を「家」から解放し、自由な「事実婚」(この言葉は論理矛盾である。同棲の継続は、何ら正式な社会的承認を経ないのだから「婚」ではない)への道を開くはずだと錯覚しているが、じつは同時に古い「家」制度の欲求をも満たすのであって、彼らはそのことをほとんどまったく自覚していない。そういうことを彼らはどう考えるのかをはっきり表明すべきである。
また別姓反対論者も、別姓が実現すると何となく古き良き伝統が壊れると自己了解しているフシがあるが、別姓に反対し同姓を支持することは、近代主義的な結婚観、家族観に立つことを意味するという事実をきちんと自覚すべきである。つまり、別姓反対論者は、「個の解放」を標榜するフェミニズムと、古い伝統的な「家」意識にとらわれる人々の両方から挟み撃ちにされているのである。
さて私の考えであるが、私はこの問題に関しては、はっきりと近代主義的な立場、すなわち別姓反対、同姓支持の立場に立つ。そして、どちらの姓にするかは、双方の家族の状況に十分留意しつつ、両性の合意によって決めるのをよしとする。理由は二つある。
一つは、夫婦および家族における姓の統一ということは、夫婦の一体性を象徴する重要な「儀式的行為」のひとつであって、これを尊重するのは、自我というものが、単に個人の内閉的な欲求や意志によって成り立っているのではなくて、自分の欲求や行為(この場合には固定的な性愛関係の樹立)の社会的な承認をみずからに照り返させることを通してのみ、その自立と安定を確認できるという、人間論的な原則によっている。
そしてもう一つは、生まれてくる子どもの問題である。すでに、多くの別姓反対論者が指摘しているように、別姓を認めると、子どもの姓をどちらにするのかをめぐって夫婦間で複雑な心理的トラブルを起こしやすいだけではなく、互いの実家との間にも紛争の種をまきかねず、さらに子どもが複数の場合、兄弟姉妹で姓が違うという不自然な結果を招く可能性もある。子どもに与える心理的な悪影響も大きいし、法律上、行政上の手続きもやたらと煩瑣になり、そのためのコストも馬鹿にならない。それだけの犠牲を払って、戸籍制度の大改革をするほど、先に挙げたフェミニストたちの言い分に説得力があるとはとうてい思えない。彼らは、子どもの気持ちや、人間が複雑なバックグラウンドを背負う存在であるという事実を視野に入れず、何でも「個人の自由」が素晴らしいという幼稚な理想にふけっているのである。
ところで私は、前述の本を書いたときには、ほぼこれと同じ論理を展開したが、それにもかかわらず、「そんなに別姓がいいと思う人がいるなら、法律上の席だけは空けてやったらいいんじゃない。その精神的コストは自分が勝手に背負うのだし、どちらがいいかは大衆が決めるでしょう。たぶん日本の大衆はそんなに実行に移さないでしょう」という「容認派」の立場を言明した。しかし現在は、通称(旧姓)使用を法的に認めるというアイデアがあったかということを教えられ、なるほどそれで万事解決ではないか、と思うようになった。したがって、別姓の制度化には反対の立場を改めて表明したいと思う。
なお、夫婦および家族の一体性という近代思想を徹底化するなら、婚姻時に「第三の姓」を選択する余地も与えるべきだという意見もあるが、ひとつの見識ではあるものの、やはり煩瑣にすぎ、当面の日本人の生活心情に適合しないと思う。ことに現在は長寿社会であるから、親子の断絶感をもう一つ増やすことになってあまり望ましくない。現行制度のままならば、妻方か夫方のどちらかが我慢すればすむ話である。
また、好きになった相手の姓を名乗りたいという心情の持ち主も少なからずあることも忘れてはならない。
以上のように議論を進めてくると、フェミニストたちの過度の平等欲求と幼稚な個人絶対主義が、無自覚的にどこを志向しているかということに論及せずにはいられない。
そもそも家族とはいったいなんだろうか。それは男女の排他的な性愛関係というヨコのつながりと、その時間的な展開から生まれる親子の情愛関係というタテのつながりとを精神的な核とする、共同的なまとまりである。
最近、親しい者同士が共同生活をしさえすればそれも家族といっていいのではないかとか、一人でも家族ではないかなどという言い方が一部ではやっているが、これは、本来的な家族関係に対するうっとうしさの感情だけをよりどころにして、いたずらに原理を拡大解釈した馬鹿げた論理である。単なる親しい者の共同生活や単身生活者を「家族」と見なすとしたら、それは、自分たちのまとまり意識や自我意識を、「家族」という集団に擬制的に託して呼びたいという本人たちの願望をあらわしているだけなのであるから、そのことは結局、「家族」なるものの根幹の原理を少しも変えたり覆したりすることにはなっていない。人間が歴史的に蓄積してきたさまざまな共同観念の深い根拠を、それぞれの原理から考えようとしない、頭の悪い人たちの言い草である。
結婚とは、「家族」という共同的なまとまりを作ることを決断した者たちが、その意志を周囲の社会から承認してもらう制度的な手続きのことを意味する。この制度的な手続きには、完璧とはいえないものの、永い人類史によって培われた深い知恵が込められている。その知恵とは、第一に、人間特有の性愛感情が本質的にはらむ暴力的な不安定さ、乱脈さを、それぞれのペア同士が相互に排他性を承認することによってひとまず安定に導くということ、そして第二に、性愛関係が子どもを生み出す可能性を持っている事実に対して、一般社会がその事実をみずからの労働秩序や法秩序に組み入れるために当事者たちに養育の責任を課し、そのことによって、当事者たち自身に社会的な人格の持ち主としての自覚を与えること、である。
これらによって次のことが実現する。一つは、当人たち自身にとって「これからの生」についての具体的なイメージが与えられること。ふたつ目は、性愛感情の暴力的な不安定さと、個体の有限性を超えた社会秩序の連続性の維持とのあいだに一つの妥協的な合意が成立すること。結婚がめでたいこととして祝福されるのは、愛する二人が「永遠の愛」を勝ち得たからではなく(見合い結婚のように、べつに愛し合っていない者の結婚も祝福される)、人間がもともと二重性として背負うエロス的関係の展開と社会的関係の展開との間に接点(結縁)が持たれたからである。家族とは、一つの性愛関係が社会化してゆく歩みそれ自体である。
さてこのように考えてくれば、別姓の制度化がどういう実際的効果をもたらすかは措くとして、夫婦別姓を声高に唱えるフェミニストや個人絶対主義者たちの思想が無自覚的にどこを志向しているかが見えてこよう。彼らは、その幼稚な頭で、家族の共同性と個人とを対立関係においてのみとらえ、家族という「制度」が個人の自由を縛る「悪」であるという固定観念にとらわれているのである。
もちろん、制度が制度である限り、それが人間の多様な欲求との間に摩擦を引き起こすことは避けられない。しかし、人間の自由とはもともと無限定ではあり得ないのであって、制約を制約として引き受けることにおいて初めて具体的に実現されるのである。彼らはこの基本的なことを理解せず、歴史の教訓に耳を貸そうともせず、ただのわがままを自由と勘違いしている。それこそ「思想の自由」というものだが、しかし問題は、彼らが、現在の制約に代えるにどのような未来社会のヴィジョンを描いているのか、その全体構想をきちんと提示できないという点にある。そのため、ばらばらな個人の欲求の多様をただ認めよという相対主義的な主張で思考停止する。しかし、しっかりした思想的基軸を持たないただの相対主義は、結果として、強大な権力を占有する全体主義に必ず取り込まれる。なぜなら、社会秩序の維持と安定をだれがどのように図るのかという権力論的な問題が最終的に残るからである。
人間が本性として抱える性愛感情や自己拡張欲求の暴力性を馬鹿にしてはいけない。彼らの幼稚な主張を延長すれば、プラトンが『国家』のなかで説き、また共産主義が実験的に試みたような「子どもが誕生したら親から引き離して社会の手で育てる」という考え方や、ヒッピー・コミューンが理想として掲げたような「性愛の相手の自由な相互所有」という考え方に必然的に行き着く。そして、これらの考え方が惨めな失敗に終わっていることは、すでに歴史のなかで検証済みなのである。