小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:Voice
(2002年06月号)

フェミニズムを気取った屁理屈

  『文藝春秋』四月臨時増刊号「家族の絆」は、総勢一一八人の各界の人々が家族について語っていて、なかなか壮観である(じつは私も一文を寄せている)。だが中には、これは見捨てておけないと感じるものが散見される。その一つに、精神科医・斎藤学氏の「家族に父はいらないかも知れない」がある。

  斎藤氏は、「家族が崩壊して人類が生き残れる筈がない」と至極当然な認識を示したあとで、しかし環境の変化に適応せずに硬直した不動の位置を保とうとすれば、かえって家族は倒壊すると述べ、その例として、五十代以上の男性の六割〜七割がシングル・ライフや事実婚や夫婦別姓に共感できないと表明したという意識調査結果を紹介する。そして、これは「伝統的な家」をそのまま維持したい思いのあらわれだろうが、じつは家制度は帝国主義と同様、明治時代に作られた近代的なもので、ヨーロッパ風のセクシズムをまねて、女性を家事と女言葉に閉じこめたのだ、と断じている。

  次に斎藤氏は、現在の家族の問題で重要なのは、出産・育児の責任が女性の肩にかかりすぎていることで、そのひずみが児童虐待や少子化現象としてあらわれているのだから、いわゆる「三歳児神話」を棄てて、女性が子育てに専念することをやめ、乳幼児の母も週五日八時間ずつ働けばいい。そのほうが母子の出会いはいつも新鮮で喜びにあふれるものになる。そのためには保育園や児童館の充実が必要になり、それが果たされれば、男性保育者の中に理想の父(社会的父)が見いだされるだろう。また、そうなればシングル・マザーの割合が現在の一%から英仏並みの三〇〜四〇%になり、合計特殊出生率が一・八前後にまで回復するはずである、という。「父を名のる人間が必ずしも必要なわけではないという事実に、そろそろ男たちは気づかなければならない」のだそうである。

  さて斎藤氏の論理は、一見、「家族を守るために」古い観念を棄てて新しい柔軟な適応態度をとることを勧める正論のように見えるが、じつはいくつもの飛躍と穴がある。結局は、「私は常に弱者である女性の味方です」という偽善的な態度の表明にしかなっておらず、「家族」と「個人」を対立的にとらえて前者を否定し後者を選ぶ一部のフェミニズムの文化破壊的な立場に完全に迎合したものに他ならない。

  まず斎藤氏は、五十代以上の男性の「意識の古さ」だけを強調しているが、最近の統計では、「家庭の重要なことは父親が決定すべき」「子どもが三歳くらいまでは母親が育児に専念すべき」という意見に賛成と答えた人は、男女、年齢を問わない総計で、じつに八二%、九〇%の高率に上っている。また未婚女性を対象に理想の働き方を問うたところ、「妊娠・出産時に退職して、子どもが手を離れたら再就職」「専業主婦で通す」と答えた人の合計が七割を超えており、「継続型」は一八%にすぎない。少子化を頭から悪とする固定観念もさることながら、その原因を育児専念に対する女性の「被差別感」にだけ一元化する単純さには、あきれてものが言えない。

  次に、近代こそがセクシズムの元凶で、性別役割分業は歴史が浅いから根拠薄弱ととらえるのは、フェミニズムお得意の論理だが、この論理は、なぜ暮らしが豊かになると多くの男女が性差によるバランスある分業を選び取るのかという理由を少しも説明せず、初めから「女性が家庭に専念するのは悪いこと」という偏向した前提にたっている。また斎藤氏は、自分の専門領域であるにもかかわらず、きちんと調べもせずに児童虐待が増えているというマスコミ情報を鵜呑みにしている。児童虐待を最も象徴する「嬰児殺」は、半世紀前に比べて十分の一に減っているのである。子どもが幼いころの母子密着が悪い結果を生んでいるという客観的証拠はない。

  さらに、母子が接する機会が少ないほど出会いが新鮮で喜びにあふれたものになるとか、男性保育者のなかに理想の父(社会的父)が見いだされるなどとどうして断定できるのか。育児を人任せにするのはやむを得ずそうしているので、けっして積極的に勧められるべきことではない。仕事で疲れて子どもに目がいかない可能性も高まるし、預け先とのトラブルも起こりやすい。親の責任回避の傾向をも助長する。英仏のシングル・マザー率の高さに対する手放しの礼賛に至っては噴飯ものというほかない。これらはすべて、「家族を解体して個の原理を前面に押し出す」という大人の手前勝手な動機に基づいた屁理屈であり、結果的に子どもにとっての私的で親密な養育環境の大切さを無視した社会ファシズムに収斂するものだ。要するに斎藤氏は、リベラリズムを気取りながら、自分がどんな危険な「全体主義思想」に染まっているかの自覚が全くないのである。