小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:Voice
(2002年05月号)

高齢者は「働けない弱者」か

  高齢社会の問題がさんざん論じられているが、その論じられ方の根拠になっている危機意識は果たして的を射たものなのであろうか。高齢社会の厳しい現実はそれとして直視すべきだが、私の印象では、いくつかの点で危機意識の抱き方そのものに偏りがある。

  第一に、この問題に対する議論の提出のされ方が、マクロ的な観点に立ちすぎていると思う。高齢者の広範な出現と、その次にやってくる総人口の減少が、経済的な意味での日本の活力の衰退を引き起こすからまずいことだというのがその一つだが、本当にそういう因果関係が単純に成り立つのだろうか。「活力」といった言葉ははなはだ抽象的で、量的な規定だけを根拠にしているために、何を意味するのかよくわからない。

  たとえ高齢者が増えたとしても、その人たち一人ひとりが年齢に見合った仕事に取り組むことができ、自分の資産を活用してやりがいのあることができるような社会システムになっていれば、それは悪いことではない。また総人口が減ることは、むしろ若年労働者の市場参加の機会を増やすことにつながるから、就職難や低賃金でこき使われる状態の改善をもたらすかもしれない。若者のエネルギーの健全な発露が労働力の質的な向上や新しい発想の創出を促す可能性もある。要は社会ヴィジョンの描き方しだいなのである。「活力の衰退」説は、個人個人の欲求のあり方や社会的関心のあり方といった、個別の「質」的な面へまなざしを向けることを隠蔽する作用をもつ。

  第二に、高齢者と聞くと「働けない人」を意味するというイメージがマスメディアを通して流布しすぎている。テレビなどでは、好んで暗い面ばかりを強調して「貧しい寝たきり老人」などの実態映像をやたら流しているが、これは、「弱者保護」と「福祉の充実」だけを金科玉条としてきた古い戦後民主主義的政治風潮の名残である。定義にもよるが、実際には、寝たきり老人というのは意外に少なくて、六五歳以上(この年齢以上を「働けない老人」であるかのように想定させる年齢設定がそもそも問題なのだが、それは次に述べる)で、多くても五%程度である(厚生省「二一世紀福祉ビジョン」による)。この五%以外には、もちろん要介護老人もたくさんいるであろうが、いっぽうで、体はまだまだ元気で勤労意欲も十分にあり、しかもかなりの資産をため込み、けっこう余裕のある人生を送っている人も多い。個人金融資産一千四百兆円(赤ちゃんも含め、一人あたり一千万円以上)という途方もない数字の相当部分は、高齢者の手に握られている。それが有効なフローとして個人消費に結びつかないことのほうが問題である。

  第三に、「高齢者」とか「老人」とかの定義の問題がある。朝日新聞三月二日付けの記事によると、国連経済社会局が発表した高齢化の統計で、日本では二〇五〇年までに六五歳以上の一人を一五歳から六四歳までの働き手一・四人で支えることになるという予想が示されたという。「全世界でみると『働き手』が六五歳以上を支える割合が今の九対一から四対一に激減する。日本の一・四対一という割合は先進国のなかでもイタリア、スペインと並ぶ」そうである(前掲記事)。

  だが、何の根拠をもって一五歳から六四歳までの「働き手」が六五歳以上を「支える」と決めつけるのか。いまだに「生産年齢人口」を一五歳から六四歳までとし、それを超える人たちを「非生産年齢」として排除するスタイルを統計数字の基礎にしているのは、まったく現在の日本の実態に見合っていない。一五歳から一八歳までの世代はみな通学者であるし、二二歳までの半分が、親のすねをかじっている大学生である(彼らの多くはアルバイトで小金を稼いではいるが、それはほとんど遊興費などに使われ、老人を「支えて」などいない)。また、市場に直接参加していない専業主婦もたくさんいる。今後、七〇歳、八〇歳になっても働いたり、自分の資産で食べていく人は増えるであろうから、この「六五歳以上を支える」という時代錯誤的な先入観にもとづいた把握の仕方そのものを改めるべきである。年齢にかかわらず、実質的な労働人口と、稼いでいない人たちとの区分を正確に把握して統計の基礎とすべきなのだ。

  このことは小さなことのようだが、じつは高齢社会をよりよい社会に導くにはどうすればよいかという大切な理念の問題に結びついている。政治評論家の櫻田淳氏がつねづね強調しているように、「よりよい社会」とは、六五歳以上の人たちや障害をもつ人たちを「働けない弱者」と規定して単なる福祉の対象と見なすのではなく、社会に何らかの労働を投与したいと思っているどんな人々にも、その機会と便宜を提供できるような社会である。