プラトンは次のように考えた。恋する心(エロス)は、それ自体としては美しいものでも醜いものでもなく、自分の中に何か欠けたものがあることを知って(この感情を抱くことを、彼は「身ごもり」ととらえる)、それを満たそうとして美しいものを求め、「美しいもののなかに出産しようとする」ことである、と。ここまでは、「恋心」というもののあり方をよくとらえているように思える。しかし彼は進んで、そのめざすべき「美しいもの」には、次のような価値の序列があると説いた。低いほうから言うと、まずだれか特定の人の肉体の美しさ、次に、肉体の美しさ一般。次に、人間の営みや法のなかにあらわれる魂の美しさ。最後に、美しい知識、つまり「神的な美そのもの(美のイデア)」。恋する人は、特定の肉体の美という、感覚でのみとらえられる段階から始まり、しだいにこの序列を踏んで、より肉的な段階を「さげすむべきもの」として捨て去っていき、究極的には永遠不死なるものとしての「美のイデア」を愛する地点にまで達するべきである----。簡単にいえば、知を愛する者(フィロソファー、哲学者)こそ、最も恋の道を究めた者だというのである。
この考え方は、精神的な愛を称揚した「プラトニック・ラブ」という有名な言葉の元をなすものである。でもなんだかおかしい、私たちが普通、恋と呼んでいるものは、そんなものではないはずだ、なにやらとても禁欲的で、息苦しい感じがしてくるーーあなたはそう感じないだろうか。そこであなたが、もしこのプラトンのエロス思想への違和感を実りあるものにしたいと思ったら、次の四つのことを果たさなくてはならない。
順を追っていこう。まずプラトンは、ここで一種の論理的な詐術を二つ用いている。ひとつは、いわゆる恋愛感情と知への愛とを「同一視」していること、そしてもう一つは、いわゆる恋愛感情を、「美一般」を恋い慕う気持ちの一種であるとして「抽象化」していること、である。
人に対する恋愛感情は、けっしてプラトンの考えたように、知への愛にアイデンティファイできない。なぜならそれは、あくまで一人の自我と身体をもつ存在を対象とし、その固有な特性そのものとの心身の合一と共鳴をめがける感情であって、そこにあらわれるのは、確固たる自我の境界が危うくなり関係性の揺らぎのなかに融解していくような経験だからである。これに対して「知への愛」が正当に果たされるためには、むしろ逆に、揺るぎない理性的自我が「正しい知」を冷静に識別し、その姿を曇りなく「観ずる」という賢者の毅然たる態度が要求される。
また、人に対する恋愛感情は、必ずしも「肉体の美しい人」や「心の美しい人」を求めるとは限らず、ましてや「美一般」を志向するなどというところに本質をもっていない。恋の経験を多少とも味わったことのあるものなら、すぐ納得するだろうが、「身体美」や「心の美」の持ち主が恋愛対象としていつも勝者になるかといえばそんなことはない。「蓼食う虫も好きずき」とか「破れ鍋に綴じ蓋」という言葉があるように、「身体美」は恋愛成立の絶対条件ではなく、また、道徳的な「悪い男」や「悪女」にどうしようもなく惚れていく例が数多くあるように、「心の美」もまた恋愛の必須条件ではない。ここには、後に述べるように、「肉体の美」と「心の美」という二元的な対立論理のどちらかに加担したのではどうしてもはみ出してしまう、恋愛独特の価値感情があるのであって、それをきちんと言い当てる必要があるのだ。
次に、それにもかかわらず、プラトンの説が一定の説得力を持ってきたのには、それなりの根拠がある。それは、私たちが、ある共通感情を「愛」という言葉で呼び慣わしていることにかかわっている。一般に「愛」とは、引きつけられたものに向かって自分の心身を投げ出そうとすることによって、その対象との同一化を願う感情のことである。それは行動に対する意識の先駆けであり、いわば前のめりになった内的な行動であるために、いかなる対象をめがけようと、そこには、せき止められている者に特有の昂揚感情が伴うのである。人類愛、親の子どもに対する愛、友愛、恋愛など、みなこの共通点をもっている。ただし、子細に見れば、それらはそれぞれ質や対象を異にするものである。現に古代ギリシャ語では、これら四つを言葉で区別していたそうだし、私たちも実際の生活において、これらを使い分けている。あれも愛、これも愛とひとくくりにするのとではなく、私たちが愛と呼び習わしてい感情のうちに、どんな対象的・質的区別があり、しかもそれら相互の間にどのような両立不可能な矛盾が胚胎しているかをよく見ることが大事なのだ。
次に、ソクラテス-プラトンの生きた古代アテナイ黄昏の時代には、性愛による快楽の激しい強度を放置するのではなく、その激しさ自体を手なずけながら、よき国家、よき共同体を立て直す「正義」や「徳」のためになんとか活用できないかという問題意識が自由市民の間に広汎に存在した。というのも当時は若者を立派な公民として育てる公的な教育機関はまだ存在せず、年長者が年少者に政治や文化の価値を伝授するのに、個別的なエロス関係を通じて行うという習慣が一般的だったからである。だから、こうした問題意識がプラトニズムのような「快楽から善へ」という思想に編み上げられるのもむべなるかなというところがある。「私的な恋(主として自由男子市民の同性愛)」を、公共性の維持継続を支える基盤にするというのが、彼らにとって切実な課題だったのだ。
最後に、恋愛(性愛)感情の本質についてであるが、私たちは、それを考えるのに、どこかその実態を超越した「高み」に導くものだというような、外部からの意味づけをなしてはならない。人間の恋愛(性愛)感情の本質は、特定の個体どうしが、それぞれの心身の醸し出す「雰囲気」を交錯させることによって、そこに「互いの合致」の可能性を見いだすというところに求められる。ある場合にはそれは、肉体的な要素が強い媒介となるし、別の場合には心的な要素が条件の意味となる。しかしいずれの場合にも、その合致の形成は、肉体と魂とのどちらかに価値の優先権をおいて把握できるものではない。それは、それぞれの個体がそれまでの人生途上で培ってきた歴史的・身体的な「雰囲気」の表出を仲立ちとすることによって成立するものであって、けっして、「美一般」とか「知を愛すること一般」といったイデア世界に還元することによってではない。そういうわけで、恋愛感情はあくまで個別特殊な「対」関係のあり方を、まさにその特殊性ゆえにめがけるというエロス的な特質からけっして逃れられないのである。
恋愛は「情緒」の世界でのできごとである。そして、「情緒」とは一般に、自分たちの生がそれぞれ個別ばらばらで有限性を免れない事実を、そのままでは承認できない主体的な問題として引き寄せるところに発する意識のあり方である。
なぜ人は恋をするのか。それは、身体が孤立しているというだれもが抱える事実を、なんとか乗り越えたいとする希求の意識にもとづいている。恋愛は、この希求の意識を、心身の結合に伴う快楽という「物語」によって満たそうとする試みである。そしてこの個別性を解消しようとする「希求の意識」こそは、人間の本性をなすものであり、人生に「意味」をもたらすための基本条件をなしているのである。
また、恋愛が神仏信仰と似て非なるものであるのは、後者(神仏信仰)が、揺らぎのない絶対者と、不安定な自我との関係として成立するのに対し、前者(恋愛)が、相互に不安を抱えた自我どうしの関係を前提とするという点である。そこからいえるのは、恋愛においては、相手の欲求の満足を実感できることが、こちらの欲求の満足にとって不可欠であるということ、またその裏返しとして、互いの欲求の満足の間に「ずれ」が生じるとき、葛藤や闘いといった危機の様相を必ず呈するということである。
プラトニズムの偏向は以上の認識でほぼ克服できたと思えるが、最後にひとこと付け加えておきたい。最近「人間は遺伝子の乗り物にすぎない」といった疑似自然科学的世界観に象徴されるように、人間の恋愛(性愛)感情を、種としての無意識の保存本能から解釈するとらえ方がはやっているが、これは通俗的で、安易な考え方である。人間は生殖本能から自立して恋愛し得るし、またどの恋愛主体も自分の動機を「種の保存本能」などという「生物学的解釈」に求めはしない。それは、生物としての人間の共通の制約を客観的な視点から言い当てているだけであって、「恋する」実存者の自己了解を提供するものではないのである。