小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:週刊新潮
(2002年4月11日発売号)

歴史上最愚策「ゆとり教育」の元凶を糺す

  ある人から聞いた話。高校生に「新宿」と書かせようとしたら書けないので、ではひらがなでもいいといったら、「しんじく」と書いたそうである。
  私にも似たような経験がある。本屋の店員(バイト高校生だろうか)に「熊本日々新聞」と書いてくれと頼んだら、逆にどういう字か書いてくれと紙を差し出された。大書してやったが、多少くずし気味だったせいか、「熊」の字の「四つ点」がわからず、「々」がなんだかわからず、おまけに「聞」の字の「もんがまえ」の中が書き写せない。よくもこれで本屋のバイトがつとまるとあきれ果てた。
  精神科医の和田秀樹氏によると、東大工学部では1981年から、二年次に進級するときにこれまで計四回、まったく同じ問題の数学テストを行ってきたが、平均点は年々下がり、第一回が54.0点だったのに対し、第四回では42.3点だったという(『学力崩壊』PHP研究所)。東大生で、日本の人口を問われて三億と答えた学生もいるとか。
  先日テレビで大学生に中学の数学の問題を解かせる番組をやっていたが、六大学に入る某有名私立大生は、50点しかとれなかった。
  日本人としての常識を疑わせるようなこの種の話は今日ごろごろしている。
  そんななかで、いよいよ「ゆとり教育」が本格的にスタートする。その三本柱は、週五日制と、教育内容の三割削減と、「総合的学習」の導入である。だがこれらの柱は、はじめからどれもみなシロアリに食われていて、中身は空っぽである。空っぽの柱で「これからの教育」という建物を支えようとすれば、建物はたちまち倒壊するであろう。


  「ゆとり教育」が本格的にスタートするといったが、じつはこれは、偏差値を公立教育から閉め出し「新学力観」なるものを導入した十年前から実施されていて、すでにその弊害があちこちで指摘されている。
  しかしお役所のやることは、多くの公共事業が暗礁に乗り上げていることからもわかるように、たいてい後手後手で、しかもタテ割り行政の限界を超えられないために「木を見て森を見ず」の逆効果になりがちだ。「ゆとり教育」はまさにその典型であって、歴史に残る愚策として将来語り継がれるにちがいない。
  三本柱を支えている論理は何か。子どもが詰め込み教育や受験競争や画一的な教育で苦しんでいて、その結果子どもの心が歪み、いじめや自殺や少年犯罪や不登校や高校中退が増えるのだから、子どもをもっとのびのびとさせ、個性と創造力を豊かに育てるような教育をしなければならないというのである。
  一見もっともらしいことをいっているように思われる。だがこの論理のなかには、目を覆いたくなるようなデタラメがいくつも含まれている。シロアリを飼い育てているのは、文部科学省自身、とりわけ「ミスター文部省」こと寺脇研審議官その人なのである。


  この論理のどこにデタラメがあるかを指摘する前に、まず寺脇氏が、基本的にこういう考え方(というより情緒的感覚)の持ち主である証拠を、彼自身の発言から二、三拾っておこう。
  「だれもが百点を取れるようにすることが改革の意図だ」(『論座』1999年10月号)「覚えさせる漢字を増やすことはできない。子どもの心と体のバランスを考えなきゃいけない。自殺とか登校拒否とか、子どもがSOSを発している。今までは、学力をつけさせることばかりを考えてきたんじゃないですか」「英数国の得意なものばかりが社会の勝者にならないように」(以上、共同通信配信、2001年1月28日付)
  つまりだれが見ても「ゆとり教育」の意図は、学力偏重の価値観を子どもから奪い取るところにある、と読める。そのためには学習内容をうんと易しくすることが必要で、そうすれば自殺や登校拒否はなくなる、と。


  さてデタラメの第一。子どもが詰め込みや競争で苦しむという考えには、そもそも何の根拠もない。私ども団塊の世代は競争が激しかったが、それゆえに学校を休もうとか、受験社会を呪おうなどとは思わなかった。事実、統計に当たると、私どもの時代は高校進学率の急上昇に逆比例して、不登校率は急降下していたのである。敗戦直後の生活の混乱がおさまり、高度成長という国民的目的が与えられたなかで、親子こぞって、より上の学校をめざすことが将来の幸福につながるという物語を信じることができた時代だった。日本が豊かになり、個人の自由の幅が広がり、だれもが高校に通えるようになったころから、再び不登校が急旋回して増えはじめ、今日に至っているのである。
  デタラメの第二。今の子どもは総じて競争に苦しんでなどいない。少子化と平和とそこそこの豊かさという社会的条件に支えられて、意志さえあれば大多数が高等教育を受けられる状態にある。入試も年々易しくなり、学習へのモチベーションもゆるんでいるので、毎日の勉強時間も減少の一途である。「ゆとり教育」という方針は、三十年か四十年前だったら多少は意味があったかもしれない時代錯誤に基づいているのだ。
  デタラメの第三。年少者の自殺は、中高年の自殺が増大しているのに比べて少しも増えてなどいないから、相対的に見て減っていることになる。また少年の凶悪犯罪は、マスコミが一時騒いだほど増えていず、たとえば殺人事件数は高度成長時代からみれば激減していて、現在は漸増のきざしがあるものの、かつての四分の一ほどの線をキープしている。
  デタラメの第四。「ゆとり教育」の理念は、学力をつけることや画一的な教育を受けることが個性や創造力や考える力を伸ばすことと矛盾するかのような思いこみにとらわれている。およそ個性や創造力や考える力は、基礎的な訓練を十分に受けた上に初めて花開くのであって、吸収力の旺盛な低年齢の子どもには、「読み書きそろばん」をみっちり仕込むことが何よりも大切である。
  「総合的学習」などというのは、基礎的な修練を終えた高校生か大学生になってから考えればよいので、大多数の年少の子どもたちには、だらだらと遊んでしまう時間を与えるだけである。またやる気のない教師にさぼる口実を与える可能性も高い。つまり寺脇氏は、現実を知らない空虚な理想にふけっているのだ。
  デタラメの第五。学習内容を易しくすれば、わかる子どもが増えると考えるのは安易な発想で、知的刺激を少なくしてしまうのだから、脳の活性化の習慣がつかず、結局わからない子どもの率は変わらないか、または増えるのである。加えて、できる子ども、やる気のある子どもの心を腐らせてしまい、授業離れの気持ちを一層促進する。
  デタラメの第六。これが最も肝心な点だが、「ゆとり教育」という愚策を支えている背景には、教育はその時々の子どものためにあるという、戦後民主主義のイデオロギーが作ってきた根本的な思い違いがある。これを「お子さま中心主義」という。
  教育は、どんな文化・社会にあっても、それを今受けている子どものためにあるのではなく、私たちの共同社会の秩序と繁栄を未来においても維持するためにあるのだ。したがって、ある教育施策が公立教育の現場やその外側の教育関係者にどんな現実的影響を及ぼすかという予測と、さらに先の将来、それがどんな社会をもたらすことになるかという全体的なヴィジョンとをしっかりもたずに、情緒的、場当たり的に対策を打つことは、行政主体としての責任逃れ以外の何ものでもない。「総合的学習」はその姿勢をあらわす典型で、先生に自由に任せるから、いい結果が出なかったらそれは先生の責任だよといっているに等しい。


  現在、「ゆとり教育」に対する反対論は、すでに世論としても優勢になっていて、寺脇氏もそれを知らないわけではない。
  だが官僚はそれなりに狡猾で、本音ではまずかったと気づいているくせに、今さら基本方針を変えるわけにもいかないので、いろいろな言い逃れを用意している。


  たとえば、反対論の中心になっている、学力低下を招くという意見に対しては、これはあくまでも最低基準であって、できる子には個別対応でどんどん学力を伸ばしてやっていいというようなことをしきりにいう。
  だが、ただでさえ忙殺されている今の教師に、個別対応をするだけの余裕がどこにあるというのか。そういうことを公式に許すだけの体制を整えているのだろうか。
  私立校のみならず、千代田区の小、中学校では、すでに土曜補習の方針を固めたそうである(『読売新聞』3月16日付)。休日出勤の手当はちゃんと出るのだろうか。そもそもこれではいったい何のための「ゆとり教育」か。
  また寺脇氏は、「学力が低下したことを裏づける客観的なデータはない」といまだにうそぶいているが、客観的データはある。
  河合塾が20万人規模の受験生を対象に毎年行っている「クリニックテスト」で、95年と99年にまったく同じ問題を出して国語の成績を調べたところ、同じ得点でも95年では「中の上」にしか入れなかったのに、99年では、ゆうゆうと「上位」にランクされている。つまり、平均学力が明らかに低下しているのだ。
  また、神奈川県藤沢市が中学生を対象に35年間続けているユニークな調査でも、かつてに比べて、「もっと勉強したい」と答える生徒の割合は低下し続け、ついに2000年には、「勉強はもうしたくない」と答える生徒の割合と逆転した(『神奈川新聞』2001年4月18日付)。そして一般に、この傾向は、成績が中以下の生徒において著しいことも明らかになっている。
  「ゆとり教育」実施後もこの事態が少しも好転せず、ますます悪化の度を強めていることが明瞭に見て取れる。


  ところで、「ゆとり教育」の本当の弊害は、公立校の生徒の学力低下といった単なる教育問題に限定されない。東大教授の苅谷剛彦氏が再三力説しているように、これは、これからの日本社会全体の問題なのだ。
  簡単にいうと、できる子の親は、公立校にますます見切りをつけ、塾や私立校に通わせるようになる。公立と私立の格差はさらに広がる。特に私立校の多い大都市部では、公立校は、「底辺校」化するだろう。すでに実態はそうなりつつあって、特に公立の高校には勉強意欲のない生徒が大量に押し寄せている。
  さて、ここが重要なポイントだが、この「知的階層社会化」現象は、単に「知的」な階層社会の出現を意味するのではない。
  現在、概して、知的能力のすぐれた子の家庭は、経済的にも、社会的にも、文化的にも高い階層に属している。東大生の親の年収や職業的地位や文化的水準は、一般のそれをはるかに超えているのだ。この現象が加速されると、どういうことになるか。要するに、階級社会の出現と固定化である。
  じつは文部科学省はそれをねらっているのだといったうがった見方をする人もいる。だが少なくとも寺脇氏がそんなことまで視野に入れていないことは、先ほどの発言であきらかだろう。この人は、偏差値廃止の時の立て役者でもあって、そのとき、「公立校から偏差値を閉め出しても、塾や私立への依存を強めるだけだから、結果的には公立校への信頼感を下落させることにつながるのではないか」との鋭い質問に対して、「それは文部省の関知するところではない。何でそれが悪いのか」と平然と言い放ったのである(『別冊宝島』183号)。
  読者諸氏、心せよ。私たちは、こういう視野の狭い、その時々の「お子さま」情緒を大事にするだけの(しかも時代感覚のずれた)大衆迎合的な「エリート官僚」によって日本の未来の鍵を握られているのだ。こんな無責任な「エリート官僚」を生み出したのが、よい政治エリートを作るという課題から目を背けてきた戦後民主教育の悪平等主義であることを忘れてはならない。


  また、「ゆとり教育は結果的に平準な社会をでこぼこのある社会に変えるはたらきをするから、逆説的に賛成だ」という保守論客もいる。たしかに、階級社会の固定化が一概に悪いとはいえない。しかし、ことはそんなに単純ではないのだ。
  繰り返すが、「ゆとり教育」の弊害は、単に「学力低下」にだけあるのではない。日本の底力を支えてきた知的・社会的・経済的な「中間層」の子女たちが、勉強への意欲をなくし、群をなして下方に引っ張られてしまうことが問題なのだ。
  現に起きている現象だが、「ゆとり教育」の方針を根本的に転換しないかぎり、これからおそらく、職業スキルを身につけるために必要な基礎学力のない、いわゆる「フリーター志望者」たち、つまりは「若年失業者」たちが大量に発生するだろう。それは、企業との間に大きなミスマッチを引き起こすし、また、若者たち自身も、自分の居所がいつまでもはっきりしない「精神的ホームレス」のような人生を送る可能性が高い。そしてこれは、国家全体の治安問題にもつながる。
  「お子さま中心主義」的な自由教育の失敗は、六十年代以降の二十年間におけるアメリカの実験ですでに証明済みである。結果は惨憺たるもので、犯罪、ドラッグ、売春に走る青少年が激増した。アメリカ自身だけではなく、他の先進国もみな、この結果を「他山の石」として「自由」概念の見直しに入り、それぞれに苦闘を続けている。愚策を早くあきらめて、日本人の知恵のありどころを示そうではないか。