最近の日本人のこういうところってどうしようもないな、と直観的に感じることがこの数ヶ月間に何度かあった。そのうち三つを紹介する。
第一話。比較的すいている夜の私鉄の車内でのこと。三人分あいている優先席の、端に三十代前半ぐらいの若い男、真ん中に五十代とおぼしき、かなりきこしめしたおやじ、他方の端に私が座った。おやじが若い男に何かぶつぶつ因縁をふっかけている。耳を澄ましてみると、おまえは若いのにどうして優先席に座るのだ、悪いとは思わないのかという言い分である。男のほうは、「べつに思わないよ」と答えたきり無視していたが、おやじが一向に「ぶつぶつ」をやめようとしないので、だんだんいらだってきたらしく、「うるせえな」といった視線でにらみ返した。それでもおやじはやめない。やがて男は堪忍袋の緒が切れたのか、「殴るぞ、この野郎」と一言すごんで見せた。
ここで私が介入。「ちょっと、おじさん、おかしいぞ。あんたは自分が座っているくせにそんなことをいう資格はないじゃないか」。おやじ「おれは年取っている」。私「そんなに年取っているようには見えない。おれも五十代だが、まわりにそれらしき人がいないんだから、若い人が座ったって全然かまわないじゃないか。そういう人が来たら譲ればいいんだから」。これで酔っぱらいおやじは「そうか」といってにわかに引き下がったが、若い男のほうはまだにらみ続けていた。このとき私が思ったのは、「どっちもどっちだ」ということだ。若い男は、なぜ一言、言葉によって私のように応戦せず、いきなり「殴るぞ」になるのか。
第二話。さるシンポジウムにパネラーとして招かれた。会が終わって聴衆共々、ぞろぞろと階段を下りてきたときのこと、一人の若い女がこけてしまい、頭を打ったらしく、痛そうにしてなかなか立ち上がれない。私から二メートルほどの距離だった。まわりに同じグループとおぼしき女たちがいるのに、彼女たちはただ取り巻いて「きゃあ」とか言っているだけで、まったく手を出そうともしなければ、言葉をかけようともしない。私は思わず駆け寄って、「どこか強く打ったところはないか」と声をかけながら抱き起こした。この女たちは、自分の仲間が目の前で痛い目にあっている場面で、とっさの行動を起こすのに何をそんなにためらっているのか。
第三話。これも夜の私鉄の車内でのこと。酔っぱらい男が吊り革につかまっているのだが、身体をしゃきっとできず、隣の男にぐらぐらぐらぐら寄りかかる。隣の男は何度も肘で押し返すのに、まったく効果がない。業を煮やした彼は、酔っぱらい男の背中と後頭部をいきなり強くぱんぱん! とどやしたのである。すると酔っぱらいは、「大丈夫、大丈夫」と、とぼけた答えを返してきた。この酔っぱらいには、そもそも迷惑をかけているという意識がないのだ。しかし、第一話と同じように、ここでも、いきなり頭をたたく男も男である。たとえ相手が酔っぱらっていても、「ちょっと迷惑だからしゃんとしろよ」ぐらいの言葉は通じるはずだ。
私は、自分の手柄を語ったのでもなければ、「投書マニア」がよくやるように、隣人愛道徳の頽廃を嘆いてみせたのでもない。また、外国で暮らした経験がないので、こうした光景を「最近の日本人」特有のものとして特定し、一般化できるものなのかどうか、確たる自信はない。しかし、これらの光景には、どうも「最近の日本人」に共通した、他者とのコミュニケーションに対する小心なおびえと倦怠感とが象徴的に表れているように思えてならないのだ。
考えてみれば、他人への「知らん顔」は、日本人の得意技だったとも言える。不特定多数の集まる場所では相手を人とは見なさず、相互に「沈黙」と「無行動」が守られることを秩序が維持されている状態とみなして、その空気に過剰に安住し、よほどのことがなければ腰を上げようとしない。そのくせ、オープンな飲み屋などでは、まわりの迷惑もお構いなしに身内同士だけで「イッキ飲み」などのバカ騒ぎで盛り上がる。「ヒャクショーの心性」は変わっていないのである。永らく事を荒立てずに済んできたというこの国の社会的現実が、そうした「慣れの意識」を助長したのだろう。
中島義道は、こうした文化問題を、もっと違ったアングルから徹底的にあぶり出し、「対話」の必要性を力説したが、私もかなり共感する。「対話」への踏み込みは、たしかに状況次第でそうとうの勇気を要するし、それが成果を上げる見込みも少ない。しかし、人生どちらに転んでも大したことはない、という腹をくくった覚悟をお互いにもう少し日々の実践に生かそうではないか。それは時代が要請しているように思える。