小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:Voice
(2002年02月号)

されど喪中はがき

  新年早々、抹香臭い話題になることをお許し願いたい。

  身内に不幸があったので、喪中はがきを相当数書かなくてはならなかった。年賀状書きの場合でもみんな経験していることだろうが、住所録や前年の賀状を傍らに置きながら、この人には出そうか出すまいか、一言書き添えるか何も書かないで済ませるか、この人にはどういう文言を送るのがふさわしいかなど、けっこう真剣な迷いに翻弄されるものだ。かなりの時間と精力を要求されるので、やっているうちに疲れが出てきて、つい「やらなくったって、べつにどうということはない。この慣習、だれかがいちやめたと宣言してくれないものか」などと独りぶつくさ愚痴ってみたりする。でも、やっぱりこの浮世の慣習には、侮れない意味があると思い直して、結局自分なりの妥協線を何本も引きながら、なんとかワンセットを作りあげ、ほうとため息をつく仕儀となった。たかが喪中はがき、されど喪中はがき。

  儀礼的な慣習の侮れない意味ーーいったいその底のところには何があるのだろうか。いろんなものが入り込んでいて一言で言うのは難しいが、あえて定義するなら、儀礼行為とは、公私両面にわたる自分のアイデンティティが試される場なのだと思う。

  私たち日本人は、いまかなり寛容な世界に住んでいる。ムラ社会的な世間の目やしきたりを互いに気にし合いつつ生きてきた日本人の生活感覚は、都市社会の成熟とともにずいぶん変質し、「やるもやらぬも本人の勝手次第。迷惑さえかけなければ、いちいち後ろ指を指されることを恐れる必要はない」という個人主義が浸透している。たとえば冠婚葬祭のやり方、勤務時間や服装、隣人とのつきあいなど。

  しかし同時にこのことは、対人関係における「自己決定」の機会を増やし、その分だけ、決断に関わる不安を個人のなかに作り出しているといってよい。というのも、まったく無限定な意味での「個人の自由」といった理念は、この世の実生活においては、具体的に実現されることはあり得ず、たとえ「個人主義」がいくら浸透したとしても、人間が生活していくということは、身体や情緒や理知を絶えず他者への表現として投げかけつつ、相互に影響を及ぼし合うことを本質的な条件として含んでいるからだ。つまり個人主義の浸透によって「世間」は放逐されたのではなく、ただ地縁性、土着性から離陸して、よりヴァーチャルでありながらなおリアルなものとしてその領域を拡大したにすぎない。

  儀礼的な慣習は、現代社会では、一見、他者への強いられた「おつきあい」という側面だけで意識化されがちである。しかしじつは、賀状交換のような一つの形式的なうつわを使って、私たちは、現在の「私」の社会的なありようそのものを再確認し、また同時に、それを部分的に壊したり作り替えたりして再編成しているのである。

  このことは、実際に手を染めてみて、その経験をよくなぞりなおしてみればすぐ実感できる。だれには書き、だれには書かず、だれにはこの程度のお知らせで済ませ、だれにはもう少し踏み込んだ表現を用い、だれには深い情緒の共有を訴えるーーこうした繊細で複雑な判断を使い分ける言語行為は、直ちに、自分自身の社会的人格がどのようなものとしてあるか、またありたいと思っているかという問いとなって撥ね返ってくる。

  言葉をかけることによって、相手の存在をある具体的な仕方で認めること、それは同時に、自分が相手にどのような存在として承認されるかを(さしあたり、ただ一方的なかたちで)問いかけることである。そして、その承認のされ方が手応えとして実際に返ってくるとき、初めて「私」の人格が具体的なかたちとなって成立するのである。

  いうまでもなく、賀状交換や喪中はがきは、単なる一つの機会、些細といえば些細な機会にすぎない。私はここで、ある特定の儀礼的行為の大切さを説いているのではない。いわゆる「虚礼廃止」を堂々と実行している人のある種の強さを私は羨望しているくらいである。その人はそんなことをしなくても別の仕方でおのれの人格を立てているにちがいない。それはそれでいっこうにかまわないと思う。

  私が説きたかったのは、特定の儀礼的行為の「大切さ」ではなく、その行為が象徴的に表現している人間論的な「意味」についてである。

  どんなに儀礼的行為を簡素に切りつめたり放棄したりしても、人は、何らかの「挨拶」的行動から自由になることは不可能である。なぜならば、対人関係を抜き去った「私」とは、ただ頭の中で作られただけの空虚な観念にすぎないからだ。