小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:Voice
(2002年新年号)

同時多発テロ事件の世界史的意味

  2001年9月11日のワールドトレードセンターへの航空機激突テロ事件は、これまでにないある世界史的な意味を持っている。なるほど被害の規模といった物理的な観点からいえば、日本へのアメリカの原爆投下の比ではないかもしれない。しかし原爆投下は、あくまでもすでに行われていた日米全面戦争という過程の延長上で行われた戦闘行為であり、その意味では、主権国家同士の対立という、「近代戦争」の枠内に位置づけられる事象である。これに対して、今回のテロ事件は、平和と秩序がそれなりに保たれていると先進諸国家の住民が少なくとも信じていた、その均衡感覚そのものを直撃した。

  私たちは、冷戦構造解体以後の、政治、軍事、経済すべての面におけるアメリカのリーダーシップに対して、異なる文化圏における貧困と混乱の場所から立ち上がる怨嗟の感情がいかに奥深く蓄積されたままになっていたかを知らされたのである。このことはしかし、先進諸国家の「自由と豊かさ」の理念が間違っていたことをいささかも意味するものではない。

  国際社会が直面している新しい世界史的な局面とは、どの国家をも巻き込むグローバリゼーションの巨大な波が、一つの主権国家の閉ざされた国益追求や防衛意志や外交努力のシステムにだけ目を注いでいたのではとうてい処理できない規模のものに広がってしまったという事実である。この先は、おそらくもうない。その意味で、今回のテロ事件は、グローバリゼーションが行き着くところまで展開された事態を、その悪しき側面においてもっとも象徴するものであった。

  他方で、世界の人々は、あちこちで大国的な括り方に対する違和感をあらわにし、自分たちのアイデンティティや利害感情の共有を小さな帰属圏に求めようともしている。つまり人、物、金、情報のグローバリゼーションと、小国、小民族への分離独立の志向とは、同時進行しているのだ。その一見乗り越えがたい二重性が世界の現在である。しかし、というよりも、それだからこそ、国際社会は、新しい歴史的段階に対する新しい構えを要請されていると考えるべきだ。

  いささか早とちりを覚悟の上でいうなら、私たち人類は、いま、秩序の多元化と諸秩序間の不可避的な交流(衝突)という現実を目の前にして、いよいよ「世界連邦国家」ともいうべき統治システムを具体的に構想しなくてはならない段階の端緒についているのである。

  もちろん今回の同時多発テロとそれ以後現在に至るまでのアフガン情勢の展開とは、長い目で見れば、それ自体としては瞬間的な事変のたぐいで終わってしまうかもしれない。だが、ここで仮に一時的な平穏が獲得されたとしても、今回の一連の過程が指し示している問題の本質だけは、今後数百年のスケールで人類自身への問いかけをやめないに違いない。そしてこの問い――いかに「世界連邦国家」の統治を創出するか――の解決の方向は、当面、唯一の超大国であるアメリカを中心とした、先進有力国家の知恵と理性にかかっているといってよい。

  この課題は、観念的な平和論や、怨嗟に基づく情緒的な平等論、報復合理化論ではけっして解決できない。豊かさと貧困の格差を下向きに引きずりおろすのではなく、人類の一部が手にしえた「自由と豊かさ」をより多くの人々の手にもたらしうるにはどうすればよいかを具体的に考えることだけが重要なのである。

  これに加えて、私たちは、それぞれの人間が抱きうる共感の限界ということをよくわきまえておかなくてはならない。誤解を恐れずに率直に告白するが、私は、テロ事件のわずか三日後にワシントンのチャーチで行われた追悼式で、ムスリム、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教の各代表たちが勢揃いして、哀悼の意と困難克服への強い決意を表明するのをCNNで見たとき思わず落涙してしまったのに、アフガン難民たちの映像を何度見せられても、それほど強い同情の念がわき起こらなかった。私の個人感情のあり方を普遍化することはできないが、あまりに生活状態や文化様式が異なると、おのずからの共感なるものがなかなか生じにくいことはたしかであろう。

  また、メディアでこれだけ一連の事件が報道されていても、私たちの身のまわりには相変わらず普通の人が普通に生活しており、自分に直接関係のある日常の些事に関心をくだいている。あの事件の社会的な大きさ、今後の影響力の計り知れなさなどについての認識と、個々人の生活感覚との落差を意識の上で埋めることもほとんど不可能なのである。

  私たち人間は、これからも客観世界についての認識とそのつどの実存感覚との途方もない落差をおのれの耳目に背負いつつ生きるほかないであろう。感情と理性との平衡を常に心がけなければならないゆえんである。