小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:広報誌「経」
(2002年01月号)

人はなぜ働くのか

  先日たまたまテレビで、会社が倒産して失業し、数ヶ月職探しに奔走している中高年サラリーマンの特集というのを見た。スポットが当てられた一人は、「何とかしなければ」と再三口にし、奥さんも「早く仕事を見つけてもらわないとやっぱり不安ですね」と漏らしていた。深刻ではあるが、残念ながら今の日本ではありふれた光景といってよい。

  ところが、ご本人たちには申し訳ないが、私はこれを見ていて、単なる同情とは別に、ある感想がわき起こってくるのを禁じ得なかった。日本人は、外国人に比べて、自分の不幸や不遇や悲しみを語るときにも、どこか頬の筋肉がゆるんでいて、時には「にやにや」しているように見える。これは、他人に接するときの社交的な感情や、事態を仕方ないこととして受け止める苦笑の感情の表現として私たち日本人にはよく理解できるもので、別にことさら違和感をかき立てるということはない。しかしこれを外国人が見たら、どう感ずるだろうか。というのは、この頬の筋肉のゆるみに加えて、インタビューを受けている彼らのうしろに映し出された自宅の光景が、和室がいくつもあるなかなか豪勢な建物だったのである。そこで私は想像した。もし日本語がまったく分からないバングラデシュやアフガニスタンやフィリピンの普通の人が、字幕も何もなしにこの映像だけを見せられたら、これは、豊かな日本家庭の生活を紹介した番組と勘違いするのではなかろうか。

  私はここで、国際理解の難しさなどを説こうとしているのではない。また、日本人は世界水準から見ればまだまだ贅沢な暮らしをしているのだから、他の貧しい国のことをもっと思いやるべきだなどと非難しているのでもない。そこそこ豊かなストックを持っている場合でも、なお大部分の人は働こうとする。この仕事を求めてやまない気持ちは、いったい何に由来するのだろうということを考えさせられたのである。そこにあるのはおそらく、単なる「食っていけないことへの恐れ」だけではない。社会と何らかのかたちでつながっていてこそ、人としてのアイデンティティが保てるという、人間の本質にもとづくものにちがいない。つまり、人間は根源的に共同性からの承認を求める存在だということだ。社会へ向かっての労働の投与は、この承認欲求を満たす条件を最も一般的なかたちで備えている。遊んで暮らせるようでも、やはり人は働くことをやめない方がよい。

(2001/11/30)