小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:宮崎日日新聞
(2001年9月5日付)

中高年男性の正念場

  最近、私が懇意にしている二人の中年男性が、これまで永年勤めてきた職を辞した。一人は私と同年輩の優秀な編集者で、さる有名出版社の専務を務めていた。もう一人は、私より六歳ほど若い養護学校の教師で、独力でパワフルなミニコミ雑誌を発行してきた。

  もちろん、二人ともリストラされたわけではない。この不況の時代にあって、あえて志を貫くべく、自分から退職したのである。元編集者のほうは、書きたい本もあり、しばらくはどこへも転職せずにぼーっとした立場に身を置いてみて、自分が何をし出すかを見守ってみたいという。元教師のほうは、雑誌の発行を続ける傍ら、フリーのライターや編集を手がけていきたいという。

  時勢が厳しいので、一応引き留めてみたが、彼らの意志は固かった。私は組織に属した経験がないので、一つの組織に何十年も勤めるということが、本人たちの内面にどんな澱をためていくのか実感できない。しかし想像するに、「もうこれ以上続けてはいられない」とか、「このままで終わる気はない」とかいった一種の不完全燃焼感が、相当切実なものとしてせり上がってきたのだと思える。四十代後半から五十代前半、一つの正念場なのだろう。

  少子高齢化社会の問題があちこちで騒がれている。しかし、意外と見えにくいのが、中高年のライフスタイルの問題である。

  かつては、平均余命が短く、子沢山で家計も苦しかったから、末っ子が成人する頃にはだいたい親はへとへとで、そのまま「老後」というステージに滑り込んだ。ところがいまは違う。たいてい子どもは一人か二人ぐらいしかいないから、遅くとも五十代前半ぐらいで子どもが成人し、家族メンバー相互の関心が拡散する。たとえ同居を続けるとしても、精神的な態度としては、一人一人が個として生きることを強いられる。家族のためにがんばるという大義名分が成立しない時間、つまり自分のために生きる意味を見いださなくてはならない時間が二十年くらい続くのだ。

  そのとき、何とか元気で活動できる残りの時間を組織に捧げたくはないと強く感ずる男たちがたくさん出てきても不思議ではないだろう。若者のフリーター現象が話題になっているが、これからは中高年フリーターも増えるかもしれない。日本の社会はそういう志向をうまく支えていくことができるだろうか。