先日、携帯のiモードを使っているある知人が、H系ビジネスからの迷惑メールが毎日何本も入って困っている、と苦笑気味に語っていた。電話番号でアドレスを登録すると、商魂たくましいH系は、やたらめったら打ち込んでくるらしい。電話局もそれだけ通信量が増えて利益につながるから積極的防止に乗り出してはくれないようだ。
出会い系サイトにはまって犯罪に巻き込まれた例などもマスコミで話題になった。若い女の子たちの中には、いわゆる「メル友」を二百人も三百人も持っていて、絶えず誰かとやりとりせずにはいられない子も多いという。振動で受信してメールでやりとりすれば、着信音や話し声が他人をうるさがらせることもないから、学校の授業中などでもさぞかしさかんに交信が行われているに違いない。
善し悪しはとりあえずおくとして、携帯電話の普及が私たちの生活意識に与える影響とはなんだろう。いくつか考えられるが、一つは、場所を同じくする人々同士の公的なつながりの価値が逓減し、空間を越えた私対私の関係の価値がその分増大するということではないだろうか。言い換えると、教室空間のような「権力場」が、形式的にしか機能しなくなる可能性が高いということだ。組織は新しい組織論を持たなくてはならない。
また、離れた相手といつでもコミュニケーションが通じてしまうということは、「待つ」ことの期待と不安とか、相手の不在を通して相手への思いを内面的に高めるといった心理作用がだんだん不要なものになっていくのではないか。そうすると、男女の関係でもドラマが盛り上がりにくく、より日常的な平板なものになってしまう可能性がある。
危機管理や業務の迅速化、すれ違いの防止など、機能的に大きな利便性を備えていることは充分に認めた上でいうのだが、要するに、携帯電話が個人にとって持つ心理的価値とは、孤独や寂しさや不安を紛らしてくれる「おもちゃ」ということではないだろうか。一般に文明の利器は、車やエアコンのように、いったん持つと必需品になってしまう。しかし携帯電話という「おもちゃ」を必需品として情報の乱気流に巻き込まれつつある私たちは、それに慣れた段階からまた新しい孤独や寂しさや不安を発見するに違いないのである。