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掲載誌不詳
(2001年8月24日 執筆)

「ゆとり教育」は何をもたらすか

  「ゆとり教育」の一環として2002年から実施される新学習指導要領は、すでに各界から批判を浴びている。学習内容の三割削減、授業時間の二割削減、総合学習の導入など、まさに改革の目玉として提出された項目が、すでに憂慮されつつある「学力低下」と「学習意欲の低下」を一層促進するのではないかというのが、さまざまな批判の底にある共通の核心である。

  義務教育課程にある子どもたちの学力低下と学習意欲の低下が実際にどの程度起きているのかについては、権威ある客観的な数字があるわけではない。文部科学省自体が、「ゆとり教育」政策の成果を示すような具体的な調査をここ何年もやっていないからである(このこと自体、行政の責任主体として大いに問題だが、これについては後に触れよう)。しかし、傍証と呼べるものならいくつもあがっている。

  たとえば、京都大学の西村和雄氏らが、1999年に、日本の国立、私立文系の最難関校といわれる大学と、中国の大学の学生を対象に、小、中学校の算数、数学の問題を中心に25点満点の試験をやった結果、中国の大学はほとんど全員が満点なのに、日本は国立で満点の率が50%を切り、私立ではなんと2%以下だったという(西村和雄・和田秀樹著『「勉強嫌い」に誰がしたのか』PHP研究所)。この出題は筆者も一部この目で確かめたが、大部分が一瞬にして答えの出る実に易しいものばかりだった。

  また、東京大学工学部で、1981年から94年にかけて計4回、二年生を対象にまったく同じ問題で学力テストをやったところ、第一回の平均点が54・0点、第二回が52・8点、第三回が43・9点、第四回が42・3点と、年々低下していることがわかった(和田秀樹著『学力崩壊』PHP研究所)。

  TOEFLの成績が、しだいに落ちてきて、1999年には世界で最低レベルになったという結果もある。「実はこの十年から十五年の間、学校や受験勉強での英語教育は圧倒的に会話重視に変わっています。(中略)つまり文法が軽視されてきてからのほうがTOEFLの点が落ちてるんです。にも関わらず、文法はもっと軽視しろといっている。」(西村・和田前掲書、和田氏の発言)

  学習意欲に関しても、さまざまな調査報告がある。

  まず勉強時間であるが、「総務庁が行った調査では、95年にはすでに、七歳から十五歳の子どもが、塾の時間を含めても家庭で学習する時間は、韓国の二分の一で、アメリカと比べてすら少ない。十数年前には、日本の子どもの学習時間が世界一であったのに、こんなに短期間に世界でも下位に位置するようになったのだ。」(和田前掲書)

  この傾向は、最近数年間、つまり「ゆとり教育」が実施されるようになってから、さらに拍車がかかっている。東京都が三年おきに行っている子ども調査の結果、92年から98年までのわずか六年間に、中学二年生の家での勉強時間が20分以上も減っていることがわかった。そればかりではなく、家でまったく勉強しない生徒の比率が、92年の27%から98年には43%と急増しているという(苅谷剛彦「日本は階層社会になる」『論座』2001年1月号)。

  また、藤沢市教育委員会が35年間にわたって行っている中学三年生を対象とした調査では、学習意欲は低下の一途をたどり、「もっと勉強したい」と答えた生徒は、第一回の1965年には65・1%だったのが、2000年では、23・8%と、ついに全体の四分の一を切った。一方で「勉強はもうしたくない」は28・8%で、第一回の4・6%に比べ6倍強に増えたという(神奈川新聞2001年4月18日)。

  国際的な意識調査でも、日本の高校生は、「将来の目的に向けてがんばる」という項目よりも「いまを楽しむ」という項目に丸をつける率が圧倒的に高く、アメリカや台湾、中国などと逆転していることが知られている。

  さらに、苅谷剛彦氏は、「インセンティブ・ディバイド」という重要な問題点を指摘している。簡単にいうと、全体的に学習意欲が下がっているだけではなく、社会階層的に下位のグループに属する家庭の子どもほど、意欲の低下傾向が著しく、しかも、下位の子どもほど、学校での成功から降りることに自己肯定的な感情を抱き、むしろそのことで自己の有能感を高める働きを持つようになっているというのである。これは、社会階層の固定化が進むことを意味している。

  新学習指導要領の実施が、これらの傾向をいっそう押し進めることは火を見るよりも明らかである。つまり、国民全体の平均学力はさらに低下し、かつ、学習意欲の格差がますます開く。その結果、長い目で見れば労働力の質が低下し、産業技術立国としての日本の屋台骨が危うくなるであろう。ちなみに、アメリカやイギリスでは、過去の教育緩和政策が基礎学力の著しい低下を招いたことを反省し、ここ数年は、国民の基礎学力向上のために、国を挙げて力を注いでいるという。日本の「ゆとり教育」は、これらの傾向に逆行するものである。

  ところでこういう見通しに対し、教育熱心で経済的に余裕のある階層の親はどう考えるだろうか。公立学校にはとてもまかせておけないというので、塾や私立学校への期待がいっそう高まるだろう。すると、公立と私立の格差が開き、公立学校には、経済的にも知的にも相対的に低い階層の子どもばかりが集まることになる。私が聞いた話によると、最近では公立中学校の教師が、自分の子どもを私立に入れたがるという。自分の職場の商品価値を認めていないという笑えない話である。

  公立では、建て前を重んじなければならない傾向が強いので、総合学習の時間に、露骨に算数や数学や国語や英語を教えるわけにはいかないだろう(私立ではそれができる)。こうして、公立学校教育の値打ちがいまよりもさらに下落し空洞化していく可能性が高い。義務教育課程での私立学校は大都市部に集中しているので、大都市と地方との成績格差が開くことが考えられるし、また、大都市部で、私立に行けなかった子どもたちの敗残意識も、悪い影響を与えるかもしれない。

  これらのことは、「ゆとり教育」の推進によって当然予想される現実的な効果であるが、文部科学省は、いったいこのことをどう考えているのだろうか。

  文部科学省の役人も、それなりにエリートであり、頭の良い人たちが集まっているのだから、こんな簡単なことがわからないはずはない。うがって言えば、彼らはそういうことを見越した上で、それで何が悪いのかと開き直っているのかもしれない。

  事実、「ゆとり教育」の推進者である文部科学省審議官・寺脇研氏は、1993年に、公立学校から業者テストを追放して、偏差値廃止の急先鋒に立っていたとき、「学校現場から偏差値を追放しても、受験指導は学校の外で行われるだけだし、ますます私立の株が上がるだけだと思うが」という質問に対し、「それはわれわれが関知するところではない。それはそれでいいじゃあないですか」と答えている(『別冊宝島』183号)。この伝で今度も押すなら、「平等社会が崩れて、階層社会の固定化が進んでも、われわれが関知するところではない。それはそれでいいじゃあないですか」ということになる。本当にそう考えているのか、そこのところをはっきりさせてもらいたい。

  ちなみに私自身は、健全な階層社会というビジョンは成り立ちうると思っているので、教育改革の目的は実はそこにあると文部科学省が明言するなら、聞く耳を持ってもよいと考えている。しかしまさかそんなことを明言するはずはあるまい。それにしても、明らかに予想される現実的効果に対して、きちんと見解を提示してフォローしないのは、行政の担当者として怠慢というべきである。

  また、学習内容の削減が批判を浴びたせいか、文部科学省は途中から、「これはあくまで最低基準であって、上限基準ではないので、学力や個性の芽がある子どもには、それを伸ばすような創造的な教育をどんどんやってもらいたい」というようなことを言い出した。しかし、いくら最低基準といっても、基準は基準である。教科書や、教科書に準拠した教材、公立高校の入試などはすべてこの規制に従わざるをえないし、私立中学入試や大学入試も、この基準をはみ出す出題をすれば批判を受けることを恐れなくてはならないだろう。

  また、一般に、現場の教師も、基準から逸脱したことをあえてやるには相当の勇気と努力が必要である。誰もが熱心教師や個性派教師ではないのだから、普通の教師の平均的指導レベルにおいて、基準がどのように作用するかということを考えなくてはならない。当然、授業水準はいまよりもさらに下がると見るべきだろう。しかも、それによって授業についていける子どもが増えるという保証はない(苅谷氏は、2001年6月28日に行われた「路の会」において、「あなたは学校での勉強がよくわかりますか」という質問に対し、最近25年間で、学習内容が易しくなっているにもかかわらず、「よくわかる」と答えた子が、20%から10%に半減している事実を報告された)。

  いったい、「ゆとり教育」という発想はどこから出てきたのだろうか。寺脇氏は、文部省は国民のみなさんの意見と動向にしたがっただけだという。これも無策無責任な発言だが、では「みなさんの意見と動向」とはなにか。

  一つは、公務員の週休二日制を徹底させるという、大人の側の要請である。元はといえば、この要請が高まったために「学習時間と学習内容の削減」というアイデアが物理的に必要とされてきたという側面が強い。これはこれで、当然のことと思う。いま教師の多忙と苦労はたいへんなもので、有能で熱心な教師ほど、自信を喪失して孤立し、疲れ果てていく例が多いという。休みを増やすという対策が有効かどうかは別として、とりあえず教師に「ゆとり」を与えることは必要であろう。

  しかし、言うまでもなく、この論理だけが「ゆとり教育」を推進させている力ではない。「ゆとり教育」の理念的なポイントは、明らかに、子どもを詰め込み教育や受験競争のストレスから解放し、落ちこぼれを救済するという点にある。つまり、この政策を深層心理的に動機づけているのは、「子どもが競争や勉強で苦しんでいるのはかわいそうだ」という現実判断であり、それが教師の労働時間を減らすという要請とリンクすることによって、政策としてまかり通ってきたのである。

  事実、寺脇氏は、「だれもが百点を取れるようにすることが改革の意図だ」(『論座』1999年10月号)と、まことに空想的な発言をし、さらに「覚えさせる漢字を増やすことはできないのか」という質問に対し、「それはできない。子どもの心と体のバランスを考えなきゃいけない。自殺とか登校拒否とか、子どもがSOSを発している。いままでは学力をつけさせることばかり考えてきたんじゃないですか」(共同通信配信、2001年1月28日付「争論」)と答えて、その本音を漏らしている。

  学校の学習量の多さと、子どもの自殺や登校拒否との間に因果関係があるなどということは、一度も客観的に証明されたことのない教育関係者の情緒的な思いこみに過ぎないが、ともかくこれらの発言からは、「ゆとり教育」推進の動機が、勉強で苦しんでいる子どもをもっと楽にさせてあげようというところにあるのが明瞭に読みとれる。

  この、「子どもが競争や勉強で苦しんでいる」という現実判断は、ここ30年ばかり、教育界を支配してきた教育観に基づいている。しかし、この認識は果たして正しいであろうか。

  1960年代の高度成長期には、確かに子どもの数もいまよりはるかに多く、世間にも、戦前からの立身出世の意志を尊ぶ気風が残っていた。また、敗戦の痛手から立ち直って、欧米並みの豊かな生活を実現させたいという国民共通の悲願が背景にあったために、親も子どもも学校で一生懸命に勉強することに大きな意味を感じていた。そしてその上昇志向の気風に答えるように、この時期には、高校が次々に新設されたので、進学率が急上昇していく大衆受験社会が到来し、ほとんど誰もが競争に巻き込まれることになった。

  しかしその時期についてさえ、「子どもが苦しんでいた」という一義的な理解を当てはめるのは正しくない。実はこの進学率上昇期には、それに反比例するように、中学生の不登校率ははっきりと下降線をたどっているのである。高校進学という明確な目標が、子どもたちに、学校に通うことのモチベーションと学習へのインセンティブを与えていたのだ。

  不登校の増加は、高校進学率が九割を越える70年代半ばからである。社会が豊かになり、だれもが大した努力をしなくても高校に通えるようになった時点から、学校は、上昇志向を動機づける場としての意味をしだいに失い、いまでは退屈と倦怠の場に転じた。もうここ20年くらいの間、平均的な子どもたちの間には、「激しい競争」と呼べるような事態は存在しないのである。

  もっとも、私立6年一貫校には人気が集中し、それなりに激しい競争が見られるが、それも最近では、少子化のために比較的楽になりつつある。しかも、この私立志向は、大都市部に特有の現象であり、日本全体から見ればあくまで割合は小さく、成績上位者の間に限られた競争である。したがって、その訓練は、もともと高度な学習内容をめぐって行われているので、「競争から解放する」ために学習内容を易しくした最低基準を定めるというのは、とんちんかんというほかはない。

  要するに、「ゆとり教育」推進の基盤になっている現実判断は、まったく時代錯誤を犯しているのだ。いまの子どもたちの日常意識の特徴は、学校に通って勉強することの明確なインセンティブが与えられないにもかかわらず、何となく通わなくてはならないところという強制感にしたがって通う惰性的な意識であろう。「学校は友達と遊ぶところ、勉強は塾で」と、多くの子どもが率直に告白するゆえんである。

  この傾向は、新学習指導要領の導入によって、さらに助長されることは疑いない。すでに述べたように、「新学力観」や「生活科」の導入、学習内容の削減などによる「ゆとり教育」の推進によって、ここ数年間、子どもたちの勉強離れはかえって進んでいるのである。

  なぜ、このような時代錯誤的な現実判断が、教育政策に反映してしまうのだろうか。

  その根底には、戦後民主主義がはぐくんできた、過剰な平等主義がある。いつの頃からか、学校教育の世界では、競争にうち勝つのは悪いこと、勉強ができて抜きんでるのは後ろめたいこと、といった空気が支配するようになった。この競争忌避、勉強否定の空気は、「民主主義」的、「平等主義」的な教育論者たちが、マスコミを通じて執拗に作り出してきたものである。

  「民主主義」的、「平等主義」的な教育論者たちの唱える教育論は、実に見事に型にはまっていた。いわく、子どもが受験競争や詰め込み教育で苦しんでいて、その重圧で不登校に陥ったり、非行やいじめ、キレた行動に走るのだから、そうした重圧から子どもを解放してあげなくてはならない、いわく、日本の教育は画一主義的で管理主義的だから、もっと子どもの自主性を尊重し、自由な個性、創造性を伸ばしてあげなくてはならない、いわく、これまでの教育は知育偏重で、徳育をおろそかにしてきたから、これからはもっと豊かな人間性を育てなくてはならない、いわく、成績で人間を評価するのでなく、もっと意欲や関心や態度など、全体でその子を評価してあげなくてはならない----。

  それぞれニュアンスの違いはあっても、これらの一見もっともな主張が、期せずしてターゲットにしているところは同じである。つまり、学力の優劣によって発生する序列と格差の現実を、ただ観念の上だけで否定しようとしているのだ。そして、これまでの教育改革政策の理念が、すべてこうした考え方をベースにして立てられてきたことも確かである。

  結果的にこれまでの教育改革はすべて裏目に出た。それは、これらの教育観が、子どもを子どもとして一括して捉えただけの観念的な理想主義に走っているからである。

  たとえば、これらの理念は、個人の間に厳然と存在する大きな能力差や意欲の差を認めようとせず、それをないことにして済ませられるかのようなごまかしに陥っている。また、人々の欲望の本音の部分を甘く見ていて、いくらきれい事をいっても、人はその通りに動きはしないということを忘れている。そのことをもっともよく示したのが、東京都の学校群制度によって、学力優秀な生徒が全て私立に逃げてしまった例である。

  さらに、一口に子どもといっても小学校低学年から高校生までおり、発達段階に応じた対応が必要とされるのに、これらの理念は、そういうきめ細かいまなざしを持つことを封じてしまう。

  たとえば、今度の新指導要領では、子どもの自ら考える力や創造性を育てるという名目で「総合的な学習」の時間が大幅に取り入れられているが、これは、すでに基礎学力が充分にある生徒に適用すべき考えであって、まだなんの基礎知識も固まっていない低学年の子どもに適用すると、ただ何となく体験学習やグループ発表などをやってみたものの、いったい何がわかったのかわからないという結果を招く危険性がきわめて大きい。誰かが、中東の位置も歴史も学んでいない子どもたちに中東情勢を論じさせてなんの意味があるかといっていたが、その通りである。

  ものには順序というものがあって、しっかりした基礎知識の上にはじめて考える力や創造性が育つのである。自主的に考える力や創造性や個性を育てることと、基礎力の養成のためにじっくりと「画一的な」訓練を積むこととを、二律背反のように分けてしまう考え方がおかしいのだ。その意味で、吸収力の旺盛な低学年の子どもには、反復練習を基本とした「画一的な教育」が大いに必要なのである。日本人の暗算力や識字率の高さが、こうした伝統的な教育法によって培われてきたことを忘れてはならない。「読み書きそろばん」の時間を削って、曖昧な「総合学習」の時間で埋めることは、この伝統を崩すことにつながる。

  ここ30年あまり、悪平等主義と無原則な自由主義がはびこり、教育界に子どもの「内発性」や「生まれながらの個性」に過度の期待を寄せる「お子さま」中心主義が蔓延したが、それは結果的に多くの子どもをスポイルすることになり、勉強離れ、学習意欲の低下を引き起こしてしまった。この勉強否定、序列嫌悪の空気がいかに教育政策に反映しているかは、次の事実によってもわかる。元文部大臣の有馬朗人氏は次のように書いている。

  過去には56〜66年に全国学力調査が5〜20%の生徒を対象に行われた。これが今日まで続いていればこのような批判は起こらなかった。まことに残念なことに、当時教員の一部が調査に反対し闘争を行い裁判ざたにまでなった。またいくつかの学会が強く反対した。このため文部省(当時)はその継続を断念してしまったのである。ただし、新しい指導要領へ移行するたび、その後は小規模の教育課程実施状況調査が81〜83年と93〜95年で1%の生徒を対象に行われた。(「理科と数学の時間は減らし過ぎだ」『論座』2001年9月号)

  66年までは全国学力調査が公然と行われていたのである。それが、70年代には一度も行われていず、80年代以降は、わずか1%の生徒を対象に、まるで批判を気にして影でこそこそやるかのようにしか行われていない。「お子さま」中心主義的な理想を振りかざす日教組などの圧力に屈した文部省の自信と信念のなさは明らかで、生徒の学力をテストで評価することに対して、病的なほどのタブー意識に拘束されてきたのだ。

  教育政策の成果を科学的に知るために、国民全体の教育水準を継続的に評価するということは、文部行政主体の責任に属することではないのだろうか。ようやく来年から学力調査が実施されることになったそうだが、ぜひ広範な規模できちんとした結果を出してほしいと思う。

  今後「ゆとり教育」路線は子どもたちをどこに連れていくのであろうか。すでに学校現場では、なんのガイドラインも示されない「総合学習」の進め方をめぐって相当の混乱が見られるという。しかしスタートさせることが決まってしまった新学習指導要領を力ずくで阻止するわけにはいかない。とすれば、次のような考え方も成り立つ。

  文部科学省自身が、学校の創意と工夫にまかせると言っているのだから、これを学力向上の一つのチャンスと見て、「うちは基礎学力の充実を目指す」という信念を持ち、「総合学習」の時間をすべて主要教科の指導に当てるのである。小学校低学年に英語を導入するのもいいかもしれない。また、総合学習の時間枠の中に習熟度別クラスをもうけ、進んだ子には高度な課題を、遅れた子には反復練習を課すというのも一つのアイデアである。学力別クラスの効率の良さは、すでに塾などで実証済みなのだ。できない子も、かえってわかる喜びが得られるのであって、心が傷つくなどということを過剰に恐れる必要はない。もっとも、これらの方針を公立学校で貫くことは難しいだろうが。

  それにしても、最も問題なのは、学習への内的な動機付けを低下させているいまの子どもたちに、外側からどのような論理によってインセンティブを与えるかということである。これについての真剣で具体的な議論なしに、「ゆとり教育」をただ建て前通りに推進し続けることは、将来的に、労働力の質的な悪化を招き、日本の産業界に大きな損失を与えかねないであろう。