小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載誌:こころの科学 98号
(2001年7月)

教師の現象学――近未来の教師像

学校教師の現状とその背景

  私に与えられた課題は、あるべき教師の近未来像を探るということであるが、現在の教育環境に対する正しい状況認識を差し置いて、理想の教師像を机上で組み立ててみても意味がない。そこでまず、学校教師を取り巻く厳しい状況とその背景について考えるところから始めたいと思う。

  学級崩壊現象が問題とされるなかで、教師が疲れきっている。

  1999年における文部省(当時)の調査によると、全国公立小中高校などの教員で、精神的疾患で休職した人の数は、調査を始めた1979年度には600人台だったが、97年度には三倍近くの1600人を超え、前年度に比べて16%増加した。また日教組の99年一?二月の調査でも、子どもとの関係や学級経営などを巡り、三人に一人が「学級担任をやめたいと思ったことがある」と回答した。さらに、2000年12月に総務庁青少年対策本部が発表した「低年齢少年の価値観などに関する調査の概要」によると、子ども自身の回答であるにもかかわらず、「騒がしくて授業ができない」に、「あてはまる」「まああてはまる」と答えた者の合計が三割弱に達する。

  複数の教師の証言によれば、今小学校高学年(時には低学年)から高校に至るまで、各学年に一クラスぐらいの割合で、学級運営がうまくいかない状態が見られるという。またこれは、不慣れな新任教師に限ったことではなく、むしろベテラン教師のほうが、これまでのやり方ではクラスを統括することができずに心身を痛めて入院してしまったり、疲れ果てて退職していく例が多いそうである。普通の小学生が、ベテラン女性教師に向かって「うるせえ、くそばばあ」と平気で呼ばわるなどという例にもことかかない。子どもが学校という空間のなかで示す集団的態度が、80年代の初めころから変貌しはじめ、その変貌ぶりに教師が手を焼いている状態がずっと続いている。

  これは、かつて「校内暴力」として世間を騒がせたころのように、一部の落ちこぼれや不良分子が積極的に授業をひっかき回すというのではなく、できる子からできない子まで幅広く蔓延している一種の「空気」だといってよい。つまり、クラスのほぼ全体のメンバ?が、管理者の集団統一意思に同調せず、自分がそこにメンバ?として属する社会的な意味の了解と承認を、退屈と倦怠の態度によって拒否しているのだ。それは生徒たちの日常感覚となってしまっており、別段嵐を引き起こすわけではないので、トピックスとしては目立たない。しかし文化伝達としての教育が成り立たないという意味では、かつてよりも深刻になっているとも考えられる。いわば、かつての急性の状態が、慢性化し、拡散しているのである。

  この事態を、教師と生徒の「信頼関係」が崩れたという言葉でとらえたのでは問題の本質をとらえそこなう。「信頼関係」という言葉は、個人のこころとこころのありかたを示すもので、学校における教師と生徒という社会的な関係空間を表現するには牧歌的にすぎる。教師と生徒の関係は、あくまで教え導く者とそれに従う者という社会的な優劣関係の了解を前提としてのみ成り立つので、それは、正しくは「権力=権威関係」としてとらえられるべきである。世に、教師と生徒の関係は対等(であるべき)だなどという「民主的、平等主義的」な教育論者がいるが、それは、教育の現場が実際にどのように運営されなくてはならないかということを無視した空想的な物言いである。もちろん教師と生徒の間に「信頼関係」が成り立つことは大いにあり得るが、それは、健全真っ当な「権力=権威関係」がうまく機能している時に、それを基盤としてはじめて成り立つ個々偶然的なあり方にほかならない。

  つまり、現在深刻化しているといわれる学級崩壊現象は、「教師の権威性一般」の崩壊なのである。いうまでもなくそれは、個々の教師の指導力や資質の問題などではない。

  もちろん昔も、尊敬に値せず生徒にバカにされる教師というのはいくらでもいたし、反抗的な生徒というのもたくさんいた。だが昔は、不服従の態度を示したり、反抗したりする場合でも、まさに不服従、反抗という姿勢において教師の権威が意識されたのであり、生徒たちはそのあらかじめ意識された権威の壁にぶつかっていったのである。ところが、現在の学級崩壊現象が象徴的に示しているのは、生徒が教師を自分よりも上位に立つ権威ある存在として「感じない」という事態なのである。いったいこの事態の背景には何があるのだろうか。

  一言でいうなら、「学校成功物語」の終焉である。じつはそれは70年代の後半ぐらいから徐々に進行していた。このころ、欧米並みの近代化という大目標が成し遂げられ、それまで日本の経済や政治を支えてきた上昇志向のパトスやエートス(情熱と倫理的気風)が、その実質的な意味を失ったのである。

  何とか貧困から脱して今よりもましな生活を手に入れたい、そのためには、学校にきちんと通って教師の言うことをよく聞き、一生懸命努力して学び、順々に階段を上っていかなくてはならない――これが、かつての「学校成功物語」である。それを支えていたのが、当時の子どもたちや親たちのパトスとエートスである。こういうパトスとエートスが生きている限り、子どもは強制を強制として感じながらも、それに適応する必然性を感じ取ることができる。したがってまたそこに、権威を権威として承認する無意識の合意も形成される。

  だが70年代後半からわが国に一般的となった豊かな近代的都市社会の出現は、この「学校成功物語」に象徴される農耕社会型ないし産業社会型のパトスとエートスの使命が終わりつつあることを、しだいに私たちの生活意識に告げ知らせるようになった。私生活は密室化した核家族中心に営まれるようになり、少く生まれてきた子どもに大きな養育のエネルギーが注がれるようになった。その結果、都会的な個人主義的感性が育ち、かつての学校空間におけるような集団主義の気風になじまない、繊細で傷つきやすく、気難しい心性の子どもが大量に出現した。

  いまの子どもは、教師の権威というものになぜ服さなくてはならないかが、感覚的に納得できていないのだと思う。むろん、大人は子どもに比べて大きくて力の強い存在であり、子どもが物心がついた時には大人たちがすでにこの世を支配していたのだから、自然生理的な従属の感覚をまったく失っているわけではないだろう。しかし、現代のように生まれた時から物質的に恵まれていることが当たり前の社会で育てられてきた子どもが、ある程度自我を獲得する年齢に達してしまうと、その強固な自我の感覚(自己中心性)が、かえって社会的な優劣関係を自分にとって必要なものとして内在化することをさまたげるのではないか。なぜならば、いまの豊かな社会の子どもたちにとって、厳しい規範に服従すれば将来今よりももっと素晴らしい生活状態が期待できるはずだという論理は、ほとんど必然性をもたないからである。国家社会に有用な人材となるためにといった大義名分は、刹那的な快・不快の原則の前に敗北する。

  おまけに、教育界には、「大人も子どもも人間として対等」だとか「子どもは生まれながらにみんなすばらしい個性を持っている」などの戦後民主主義の振りまいた悪平等主義的な価値観が根を張っている。こうして、これまでの「権威」の体現者たる教師は、権威の体現者としての面目を骨抜きにされるようになったのである。

あるべき公教育の姿

  なぜ教師の権威が失墜したかを語ってきたが、その原因が、時代の必然性に根差すものである限り、今の子どもたちが、これまでの学校的な「権力=権威」空間に対して倦怠と拒否の態度をあらわにするのも、ある程度までは無理もないことだと考えざるをえない。しかしその事態を、けっして「よいこと」として容認するわけにはいかない。このまま放置すれば公立教育の空洞化がますます進み、教師の悩みは増大するし、公教育の機能不全は、長い目で見れば日本社会全体にとって間違いなく活力の減退に結びつくだろう。いや、もうその効果は明らかに現れつつあるといってよい。

  先に述べたように、教師の近未来像を描くためには、現状の問題点を押さえ、その上でこれからの教育がどのようなものであるべきかという全体像を語らなくてはならない。そのあるべき全体像との不可分の関係においてあるべき教師像も成立するはずである。

  私の考えでは、低年齢の子どもを対象とした公立義務教育の役割は次の二つに絞られる。一つは基礎学力をしっかり身につけさせること。そしてもう一つは、社会集団の中で生きていくためのルール感覚を養うこと。

  この二つが満たされるために、小中学校では必要十分な時間が確保されなくてはならない。また成熟した都市社会における子どもたちの心性は、もはやこれまでの学校のように、大集団を一括して統制していく発展途上型のスタイルに適応できなくなっているから、学校の組織スタイルそのものをいまの子どもに合わせる必要がある。

  まずクラスの人数を思い切って減らすべきである。私は、一クラス20人くらいが適正規模であろうと考えている。このくらいの規模に押さえることによって、教師はより緊密な指導を実現することができるし、生徒もよい意味の緊張感を持って授業に取り組むことができる。

  さらに大事なことは、クラスの固定したイメージをもっと流動的なものにすることである。小学校高学年くらいから、生徒個人の時間割構成の選択幅を大幅に増やし、各教科にはそれぞれ専門の教師を配置する。生徒は全ての時間を同じクラスメートとともに過ごすのではなく、次の時間に理科を選択した生徒は理科の先生の元に集まり、社会を選択した子どもは社会の先生の元に集まるというようにする。

  こうした対策の利点は、大きくいって二つある。一つは、小学校高学年ともなると学習内容が相当高度になり、一人の小学校教師が全教科を担うというこれまでの形式では、不得意な科目を教えなくてはならない教師にとって負担が大きすぎ、結果的にその教科の指導はいい加減にお茶を濁してやり過ごすという結果になりがちであり、また教師の弱点を感知した子どもがその教師を馬鹿にするという結果に陥りやすい。クラスの流動化と専門教師の配置は、それを避けることができる。また、もうひとつは、生徒の日常時間にメリハリを与えることによって、刺激と緊張感をもたらすことができ、このことが固定化したいじめ関係などを解体させる効果を生むはずである。つまり現在の生徒の多くが陥っている、授業に対する退屈と倦怠の条件をなるべく減らし、浮遊した感覚の肥大から友達どうしの意識の葛藤関係にいたずらにおぼれ込むような要素を取り除くのである。

  また、習熟度別クラスの厳密な実施や、比較的平易な小学校卒業資格試験の実施なども大いに考えられてよいアイデアである。公立義務教育は、なによりも学級崩壊現象に象徴されるような、今の小中学校に蔓延している惰性的な雰囲気、教師を悩ませるだけのだらけた雰囲気から脱却して、新しい形での緊張感を取り戻さなくてはならない。

  ここで、現在推進されている「ゆとり教育」や「学校のスリム化」の問題との関連について一言ふれておきたい。私は「ゆとり教育」の学習内容の削減には反対である。しかし「学校のスリム化」には反対ではない。この立場は一見矛盾する。授業時間がこれまでよりも減らされれば、そのぶん学習内容も減らさなければ、限られた時間で多くのことを詰め込まなくてはならなくなる可能性が大きいからである。

  だがことはもう少し厳密に、具体的に語られなくてはならない。先に述べたように、義務教育の最大の役割は基礎学力の徹底である。国語、算数、理科、社会のような主要科目には多くの時間を割くべきである。しかしいわゆる技能教科、音楽、美術、家庭科、保健体育などに対しては、学校教育の中ですべて果たされなくてはならないという考えはもう古いと思う。現在も疑われることなく実施されているこの総花的なカリキュラムは、近代公教育の立ち上げ期に、子どもの人格形成のすべてを学校教育で養成すべきだという理念に基づいて作られた制度の名残りであって、実際にはあまりその理念通りの効果を生んではいず、むしろいまの子どもたちは学校外の民間教育に頼ることによって、情操面や身体面の発達、向上を果たしている傾向が目立つ。公教育のカリキュラムを削減するとすれば、こうした科目に焦点を合わせるべきである。

  私が「学校のスリム化」を主張する根拠は、「ゆとり教育」のそれとはまったく違っている。「ゆとり教育」推進の根底にある思想は、「子どもを詰め込み教育や受験競争のストレスから解放しよう」というものであるが、この現状認識は明らかな時代錯誤を犯している。いまの平均的な子どもたちは、競争がなさすぎてかえってだらけているのである。「学校のスリム化」に意義があるのは、学校に子どもの全人格的な発達の課題をすべて背負わせてきたこれまでの学校依存の体質が、ことに生活指導的な側面などにおいて教師の負担を過重なものとし、教師の無力感を増大させるとともに、教師と生徒、教師と親との間の信頼関係を崩す結果を生みだしてきたからである。私たちはこれからは、一人の親として、また一人の市民として、子どもの問題をすべて学校に背負わせて責任を何でも先生に押しつけるのではなく、子どもの養育課題のそれぞれを、自分自身や、学校外の多様な民間教育機能に適切に配分し直すことを考えていくべきだと思う。

  つまり、学校のスリム化は、文部科学省が無責任に推進しているように、ただ学習内容を削減して余った時間はみなさんどうぞご自由に、というのではなく(こういうやり方は、国民全体の学力水準を下げ、同時に意欲ある子どもと意欲のない子どもとの格差を広げるなど、弊害が大きい)、あくまで、余った時間を受け持つ養育機能をどう充実させるかという構想とセットで提案されなくてはならない。

  一つのヴィジョンとして、たとえば学校では午前中に主要教科をみっちり仕込むようなカリキュラムを配置し、午後は選択教科の時間ということにして、音楽、体育などを自由に選べるようにする。また選ばない自由もあって、家に帰って習い事や塾に通ってもよいこととする。さらに、音楽教室、パソコン教室、英会話教室、水泳教室などの民間教育機能に学校の施設を開放し、民間教育機能は学校に出張してきて、多くの子どもたちが廉価でこれらの教育サービスを受けられるようにする。この試みは、子どもたちの多様な適性や資質を早くから発見することに役立つだろうし、競争力の低下した今の公立学校の教師たちにもいい刺激を提供するはずである。

  また私は次のようなことも重要な克服課題として考えている。すなわち、現在の普通高校志望や大学志望は、ただみんなが行くから行くという形式的なステップアップの意識に規定されていて、授業についていけない生徒や勉強意欲のない生徒も大量に収容されるために、学力水準の低い学校での生徒の学校離反意識が著しく、教師の苦労は筆舌に尽くしがたいほどたいへんなものとなっている。これは実に不健全なことである。義務教育で基礎学力をみっちり仕込まれた後は、勉強に向いていない子どもは早くそのことを悟り、自分の人生を豊かに送れるような道を模索すべきである。そのためには、中学校の段階から、実務能力を養いうるような養成機能のメニューがたくさん用意されているのがよい。そして高校選択の時期には、自分にあった専門コースを選べるように多様な専門学校を立ち上げるのが望ましい。

近未来のあるべき教師像

  以上のような「あるべき教育の未来像」が実現されることを前提に、「あるべき教師像」について語ってみたいと思う。

  ところで、一口に教師といっても、幼稚園から大学まで、また各種専門学校、塾、予備校、カルチャースクールのたぐいに至るまで、その職域と勤務内容は千差万別である。どういう場でどんな生徒を相手になにを教えるのかという具体的なことを問わずに、教師の一般的な理想像を追いかけることはむなしい。

  現在でもすでにその兆候は現れているが、これからの教育は、より多様な、また個人のニーズに適応した、私的教育重視の方向に向かっていくだろうし、またそれが望ましい方向であろう。その場合、当然教師はそれらの多様なあり方のそれぞれにふさわしい資格が要求されることになる。そこでここでは、とりあえず、学校教師と、そうでない民間スクール教師とにその職分のイメージを分けて、両者の「あるべき姿」を探ってみよう。 まず学校教師は、特に基礎学力の育成において効果的な指導能力を保持していなくてはならないことはいうまでもない。だがそれに加えて、子どもたちが現代社会で自立した個人として生きていく力とか、市民社会の一員としてのまともなルール感覚を身につけるための人格教育的な面において十分な指導力を発揮することが求められる。

  しかしこれは、かつて唱えられたような「教師=聖職者」論的な無理な要求であってはならない。「教師=聖職者」論は、親や子どもの、学校や教師への依存意識を助長する。また「金八先生」的な過剰な熱血教師を理想とするのも間違いである。「金八先生」的理想像は、現在の学校の問題が教師一人の努力ではどうにもならない全社会的な背景を持った現象である事実を隠蔽し、その理想に到達できない教師の無力感をかえってかき立ててしまう。むしろ指導力として重要なのは、個人の欲望と社会全体の利害との関係をコントロールする技術を子どもにいかに身につけさせるかといった、プラグマティックな面での訓練能力である。いいかえると、子どもたちを社会の中にうまく導き入れるよき仲介者的な役割が問われることになる。

  もう少し具体的にいおう。古い話で恐縮だが、かつてこれから教師を目指す人のためのある雑誌で、「いま、教師の仕事を考えるならば、そこに欠かせないこととは何だろうか?」という題でコメントを求められたことがある。ここで語ったことは、現在でも有効と思われるので、次にそれを掲げてみる。

  いま教師の職分は、それぞれの教育形態が抱えるそれぞれの困難によって複雑に分化しているので、その必要な資質・条件を一般的に言うことは難しいし、また言ってもあまり意味がない。たとえば小、中、高で要求される適応のスタイルは根本的に異なるし、同じ高校でもエリート校と底辺校とでは苦労の質や度合いが全く違う。このことを踏まえた上であえて言うならば、

  1. 大きな声を出す気力
  2. 授業をきちんとこなす学力と計画性
  3. 授業妨害の動きに対する決然とした態度
  4. 過度の教育的情熱の抑制
  5. 生徒集団の多様な動向に対する日常的観察眼
  6. 四分の親切心と六分の突き放し感覚
  7. 生徒の学力や関心の平均的な質に対する指導内容の適応性

-----といったところであろうか。いずれにしても、ふつうの努力の範囲内で収まるべきであって、自分の精神衛生を甚だしく毀損するような努力が要求されてくる場合には、制度の方が現実に合わなくなっていると考えた方がよい。(『教員養成セミナー』1983年5月号)

  これは要するに、個人主義的になったいまの子どもたちに向き合うときのサバイバル術を強調したものだ。私は、これからの学校教師は、失墜してしまった権威を新しい形で復権することが重要な意味を持っていると思う。正しい意味での権威とは、ただ権力を笠に着て威圧することではなく(そんなことをしても逆効果にしかならない)、活力と実力によって生徒をうまく魅きつけることである。また、自分の教師としてのサバイバル戦略をしっかり立てることが、結局は生徒の心をつかむことにつながるのである。「子ども中心主義」的な理想に偏って生徒のその時々の気分にやたら「理解ある」姿勢を見せることは、多人数の寄り合い所帯である学校のような場では、かえってクラス秩序を維持することに失敗する。学校教師は、統率技術の裏付けを伴った自信と誇りを示すことがなによりも大切である。

  これに対して、より自由な発想に基づく民間の教育機関においては、教師は限りなくインストラクター的な職能に近い存在となる。ここでは、通ってくる生徒たちのモチベーションが比較的はっきりしているので、学校に比べれば自発性を引き出しやすい。したがって、より多く要求されるのは、知識や技能をいかにうまく伝えるかというテクニックの側面である。少数の生徒たちを相手に、それぞれの生徒の資質に密着したきめ細かな対応が求められる。小人数の塾、スイミングスクール、英会話スクール、バレエ教室、ピアノ教室、自動車教習所などにおける優れた教師がそのモデルになるだろう。

  教育とは要するにサービス業である。あらゆる他のサービス業がそうであるように、誰を相手に何を供給し、どこまでが自分のになうべき役割であるか、その輪郭をはっきりと限定づけられるようなサービス提供の仕方が望ましいのだ。繰り返すが、これからの教師がどのような職業的アイデンティティを持つべきであるかは、実際の教育制度や教育機関がどのように変化・発展していくかにかかっている。しかしいずれにしても重視すべきなのは、空虚なヒューマニズム的教育理想ではなく、その場の役割に応じた個々の教師の専門的技量であるだろう。ちょうど、信頼を集める医師というのが、いつもそういう存在であるように。