小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:宮崎日日新聞
(2002年7月22日付)

池田小学校事件に思う

  大阪教育大付属池田小学校の乱入殺傷事件は、まだ記憶に生々しい。事件後、いとけない子どもたちを失った遺族の悲しみや、周囲の人々の精神的後遺症のおそれなどに対する報道は何度も流されたし、また犯人・宅間守容疑者のこれまでの怪しげな行状についてもさんざん取りざたされた。しかし私はこの事件の情報の出方について、ある釈然としない印象をずっと持ち続けてきた。それは、犯人への素朴な憎しみの感情がなぜもっと活字に踊らないのだろうということである。

  公共の報道紙面で、そのようなむき出しの感情をだれがどういう責任の名において表現するかは、微妙な問題であることを私とてわきまえないわけではない。だがよく想像力を働かせて、事件の概要を思い描いてみよう。何の関係もないかわいい子どもたちを八人も刺し殺したこの事件は、容疑者に何らの同情の余地もない、まことにひどい事件である。「ひどさ」そのものは報道されたが、なぜもっとその「ひどさ」が「犯人への公的な義憤」の表現へと結びついていかないのだろうか。たとえば「こんな犯人は、早く結審して死刑にすべし」といったコメントを決然と吐く識者が一人や二人いてもおかしくないと思うのだが、どうだろうか。

  想像するに、そういう発言に無意識のブレーキがかかる理由は三つほど考えられる。一つは、容疑者に精神障害の疑いがあるという報道が流れたため、人権的配慮というタブー観念が作用したこと、二つは、客観を旨とするメディアの言説パターンが習慣的にできあがっているために、識者などは、「冷静な分析」という装いと態度に安んじて身をやつしていられること、三つ目に、日本人は怒りや憎しみを客観化することが苦手で、ずいぶんおとなしくて優しい民族だということ。

  この事件を巡っては、犯罪のおそれのある精神障害者の保安処分の是非や、子どもの安全をいかに守るかなどが繰り返し議論された。しかし避けるべきでないもっと重要な問題があると思う。もし犯罪と犯人への社会的な怒りという軸を重視するなら、「応報刑」の考え方を真剣に再検討すべき時期にきているのではないか。言い換えると、たとえ精神障害者といえども、法と社会秩序を著しく侵した場合には、責任能力の有無という人権論的な配慮にばかりよりかかるのではなく、健常者に準じてそれなりに厳罰に処するという考え方をきちんと議論の俎上に乗せるべきではないだろうか。