小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:北海道新聞
(1998年12月16日付)

一九九八年の思想言論状況

■終着点迎えた近代

  不況が吹き荒れた一年だった。経済学者の分析も、政治家の提言も、人々はその効果に期待を寄せることをせず、終わりそうもない不況という現実にむかっての個別防衛の意識で身を固めているように思える。もともと経済的不況というのは、天から降ってわいたものではなく、人々の集合真理が作り出す結果であるから、その結果がまた人々の心理に影響を与え、消費欲望や生産意欲をしぼませる。みんなそのことに気づいているのだが、かといって個別防衛手段を講じないわけにいかない。金融は貸し渋り、企業は生産を控え、消費者は財布のひもを固くする。ますます不況は促進されるというわけだ。不況とは、単に経済的な現象ではなく、「精神不況」なのである。なぜこういうことになったのだろうか。

  きわめて乱暴な臆断(おくだん)を下すなら、要するに、日本は戦後の活力を支えていた近代化の動機を満たし、やるべきことを一回終えたのである。車窓から眺めていると、ひところに比べて人家の屋根がどこも新しくきれいになっていることに驚く。もう余計な選択消費に手を出す必要がないし、刺激を与えても内部の欲望やエロスが頭をもたげにくくなっている。

  そこでこれも乱暴な結論になるが、この「精神不況」から脱却するには、かつてのように内乱や革命や植民地争奪や戦争のようなカタストロフィーに期待するわけにいかないとすれば、人々がこの情況そのものに徐々に「飽きる」以外にないと思う。ただためこんでいたってしょうがないから、自分のために金やエネルギーを使ってしまえとみんなが思うような気分になることだ。これは谷から山への大きなうねりの変化を意味するから、時間がかかるだろう。けれどその時はいずれやってくる、と私は思っている。

■擬似空間に逃げ道

  ところで言論界も当然「精神不況」そのものである。今年人々の関心を引きつけたトピックスでまがりなりにも論ずるに値するものといえば、不況問題以外には、スポーツの活況、女子高生の援助交際問題、「新しい歴史教科書を作る会」の活動、小林よしのりの「戦争論」(幻冬舎)の反響、自殺の増加(東京都で11月現在、昨年比の1.4倍)、それに毒入りカレー事件ぐらいのものか。

  こうしてあげてみると、すべてが「精神不況」という心の空虚感に結びついているように思えてくるから困ったものだ。たとえばなぜ人々は(というよりマスコミは)スポーツやカレー事件にまなざしを集中させるのか。これらが自分たちの空虚感や閉塞(へいそく)感の裏返しとしての攻撃本能の構図をシミュレートしてくれているからだ。自らナマで表出するわけにいかない本能を、マスコミという見せ物舞台が吸収して、擬似的に演出してくれるからである。援助交際問題になぜ人々はカッカするのか。個人主義が浸透し、国家を頂点とする共同体的な規範意識の必要性が実感されなくなりつつあるために、未成年の性という最も規範意識を揺さぶるテーマが人々に実存不安を呼び起こすからである。

■大衆の不安感に柱

  戦争的な現実もないのに、なぜ「戦争論」が40万部も売れるのか。この点に関しては著者・小林の現実的な勘のよさを称(たた)えるほかない。自明視されてきた(本当は少しも自明ではないが)「日本はこんなに悪い戦争をやった」という戦後民主主義の「常識」に意識的に挑戦したこの本が、国家や社会を思想的に考えるためのものさしを喪失した現在のいささか知的な大衆の不安感に、とりあえずの柱を提供してくれているように見えたからだ。

  小林自身はきわめて自覚的で、「今時、だれが戦争を望みますか」と書いてもいるし、その後の「新ゴーマニズム宣言83章」(「サピオ」12月9日号)でも、自分の出演番組で「大東亜戦争肯定派」が「否定派」を上回ったというアンケートにニヤリとした自分の顔を後からビデオでみて、「こいつは危険だヒトラーの再来だ!」と書いて、自分に影響される「純粋まっすぐ君」をちゃんと牽(けん)制している。しかしそれでも、ものを考えるよりどころを失った今の日本人が、単純左右対立的論議にゲームのように熱中するうら寂しい光景は今後も変わらないだろう。

  「知識人」的言論、思想言論は、日本の社会情況をその素材とする限りは、今何も語るべき必然を持っていないのだ。なぜなら情況それ自体が知に養分を提供する土壌となりえていないからである。無理に知的、思想的に語りだそうとすると、たとえば大沢真幸の「戦後の思想空間」(ちくま新書)のように、柄谷行人や加藤典洋の亜流を演じて「今を戦前とみる」説や「60年周期」説などの大して根拠のない知的遊戯にふけるほかはなくなる。私たちは、語るべき何かがそこにあると思い込むのではなく、語るべき何もない空白を見つめることから頽(たい)落するために語っているにすぎない事実をまずしっかりと知るべきだ。