小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:北海道新聞
「批評指標」欄
(1998年11月6日付)

小説衰退後の様式期待 文学の必要性

  詩人の荒川洋治が文芸時評で、「すでに『文学部』のなかでは、文学が消えている。それが現実。このままだと次は『文芸誌は必要か』。近い将来には『文学は必要か』となるはずである。/ぼくにはそんな日が一日も早く来るよう期待する気持ちもある。日本が『経済』『政治』『情報』『国際』『福祉』だけになった社会とはどんなものなのか。勉強のために、見てみたい」と書いている(産経新聞11月1日)。荒川洋治という人は「裸の王様」に登場する子どもみたいなところがあって、ずばりと物事を言ってのけるところが頼もしい。文学の衰退を感傷的に「嘆いてみせる」のでなく「勉強のために、見てみたい」という言葉がなかなかいい。

  ところで「文学は必要か」といった議論は、おおむね3つの条件からひねり出されてくる。文学への愛着と、衰退への危機意識と、「文学」という言葉がもつある固定観念とである。だがこの問いにおいては、「文学とはそもそも何か」と問うことが忘れられている。この場合、自分が愛着してきたはずの「文学」が危ういように思えるのは、時代がある一定の「文学」様式をもう求めていないからにすぎない。どの時代でも、ある形式が文学の支配的な様式として確立しやがて衰退してゆくが、それにはそれなりの社会的必然がある。「小説」という様式はたぶんもうおしまいだが、文学は別におしまいではない。その次がまだ現れないか、本当は現れているのに文学であると気づかないだけのことだ。もともと文学とは「経済」「政治」うんぬんと肩を並べる形で確立された一定の言語スタイルを意味するのではなく、これらの言語カテゴリーを糧にするだけではどうしてもはみ出してしまう人間の生き方から自然にこぼれだすものである。それは無矛盾の社会が出現するのでもない限りなくなりっこない。別に大上段から「文学の必要性」などを問う必要はないのだ。筆者も次は何かを見届けたい。