小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:熊本日日新聞
(1998年7月19日付)

「新ゴーマニズム宣言スペシャル
戦争論」
小林よしのり 著
幻冬舎 刊
1500円

書評「新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論」小林よしのり 著

  ご存知戦無世代の「思想マンガ家」が、「大東亜戦争」の意味と実態を膨大な情報と想像力を駆使して多面的な角度から追いかけた、四百ページ近くに及ぶ力作である。いわゆる「自虐史観」や、戦争を単純に悪と考える「絶対平和主義」に対する異論をあえて色濃く打ち出したコンサーヴァティヴなトーンになっているが、この作品の主眼は、戦争の時代の気風を現在の「規範なき個人主義」の氾濫の風潮と対比することによって、個人が社会的存在としてあることの意義を現代の読者に強く訴えるところにあると思われる。

  私たち(50代前半以下の日本人)が戦争について考えたり語ったりするとき、自分にとって不可能なものについて考え語るという普遍的な制約のうちにおかれている。この制約は、いろいろなレベルでの戦争経験者よりも、人をイデオロギー的な雄弁者に仕立て上げやすい。なぜなら、「自分の経験しなかった歴史」を言語や画像で再現することは、初めにそれについての「観念」ありきという地点から出発せざるをえないからだ。小林は、柔軟な視点で、このことが持つ危険によく耐えていると思える。

  ことに、「大東亜戦争」が一方的に日本の悪しき侵略とは言い切れない面を持つ(特に米英との戦争において)こと、不必要だった原爆投下の責任はあくまでアメリカにあること、日本以外のどの民族も残虐さや差別意識において優るとも劣らないこと、日本軍の蛮行を証拠立てる「写真」の多くが出所の怪しい代物であること、戦中は日本軍の進撃に熱狂していた多くの民衆が、負けたとたん「軍部にだまされていた」として、自分の「信」を他に責任転嫁した事実に対して、「信じることを決断した自分はいないのか」と鋭く指摘していることなどは、巨大な歴史事象に対して私たちが持つべき複眼的な視野を分かりやすく切り開いてみせた部分として高く評価されてよいであろう。

  ただし、私自身は個人的に、この作品の底に流れる作者の美意識あるいは倫理感覚のようなものにどうしても共感できないところがある。

  小林にあって私には希薄なもの、それは手の届く関係性の範囲内での秩序感覚を時間的空間的に超えた「観念」に、自己を託すロマンティックな心情である。小林には現代の日本社会の「規範溶解」現象や生の燃焼力の衰弱に対するいらだちと義憤の感情があって、それをたとえば国家という「公」のために「個」をささげた特攻隊員の生との対比によって意識的に際立たせようとしている。しかしこの美意識的な抽象によって見えにくくなるものが二つある。ひとつは、当時の日本社会全般に存在した欧米列強に対する強いコンプレックスや時局そのものの切迫感と、近代社会達成以後の現在の比較的平穏な(弛緩した)生活感情との差異には、歴史的社会的必然があるという事実である。もう一つは、特攻隊や戦艦大和出陣などの無謀な作戦を案出せざるをえないような軍事国家、外交国家としての、合理的見地よりみての愚劣さ、だらしなさである。特攻隊は、決して家族や郷土を守るために結成されたのではない。これを命じた「国家」は、家族や郷土よりもはるかに超越的な水準にある共同性であり、そのために運営ひとつで家族や郷土の共同性と背反することがいくらでもありうるのだ。

  逆に私にあって、小林には希薄なもの、それは、一般庶民が、いつの時代にもほんとうに大切にしているものは何かということに対する諦観的な認識である。坂口安吾は敗戦直後、「堕落論」で、日本人はほんとうは戦争をやめたくて仕方がなかったのではないかと喝破した。これもまた反面の真実である以上、国家の営みとしての外交的戦略的「大失敗」に言及せずに、「個を超えた勇気ある英霊に感謝」などという心情的な一般化に同化することはできない。