ニーチェの思想は、自意識過剰で共同社会に疎外感を抱いている青年に受けるようだ。キリスト教道徳に対する激烈な否定、強者弱者の位階序列的価値観の堂々たる表明、彼岸信仰も「力への意志」の屈折した一様式に還元してしまう辛辣な視線、あるがままの生を肯定する極限形式としての永劫回帰。これらは、孤独で懐疑的でプライドの高い精神に高揚感と元気を与えずにはおかない。
永井均のニーチェ論は、そのように読者に感じさせてしまう語りのからくりと発祥を、一つの言語芸術の構造として精妙に解き明かしてみせた本といってよい。この本の方法的特徴は、哲学を役立つものと考えず、ニーチェ思想の本質的な毒性、反社会性をけっして衛生無害化しないこと、またニーチェの多義的な表現を、問いの構造を作る三つの空間のちがいと、低次空間から高次空間への突き破りの運動として確定してみせていることである。たとえば、キリスト教が育てた誠実な真理への意志が自らを食い破る運動は第一に、力への意志は第二に、永遠回帰と運命愛は第三に相当する。
特に興味深かったのは、「力への意志」が実は弱さの指標であり、ニーチェはその指標を、自らが批判の対象とした、ルサンチマンに発する道徳や心理を信じこむ弱者の存在様式をモデルとしており、しかもニーチェ自身が自己の活動の中にそれと同種の現れを感じ取ってきたのだという指摘である。これはニーチェの生涯を考えても、私など自分の内面に照らし合わせてみても思い当たるところがある。力への意志それ自体も、それを擁立したい弱者の形而上学にすぎない。だが無垢な赤子の「運命愛」になかなか到達できない者は、やなり「力への意志」で元気づけられてもいいではないかと開き直りたくなる。真理という誤謬なしに生きられないのが人間なら、せめてより役立つ誤謬をというのもニーチェのメッセージではなかったか。