小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:北海道新聞
「批評指標」欄
(1998年6月19日)

冷静に受け止めた大衆 カズの代表落ち

  サッカーW杯の日本代表から三浦カズ(知良)が降ろされて帰国させられたニュースがしばし話題をさらった。「墜(お)ちたヒーロー」は、昔から人々の心情を刺激するから、岡田監督の裁断をめぐって賛否両論がまき起こるのも当然である。勝つことを目的とした非情な競技精神を是とすべきか、日本のサッカー人気を引っ張ってきたヒーローに花を持たせることに意味を見いだすべきかという議論の構図も、予想の範囲内と言える。

  あまり断定する自信はないのだが、この騒ぎの底のほうには、何となく、「まあ、そういうことになっても仕方がない」というような、ものわかりのよいあきらめ気分も流れていたように感じられてならない。一昔前だったら、巷(ちまた)で、茶の間で、もっと熱い憤懣(まん)や議論がまき起こったのではないか。マスコミはこぞって盛り上げようとしたが、人々の反応は、「あのカズ」に起こった問題にしては比較的冷ややかだった。アルゼンチン戦の視聴率6割以上という驚くべき数字を考えると、なおさらそんな気がする。

  もしそうだとしたら、それは、たかがスポーツだからとか、カズ選手の成績が実際に不振だったからという目に見える理由のせいではなく、一般大衆自身の方が、いまの人間関係のつながり方、とぎれ方について、ある種の「断念」の修練を無意識のうちに積んできているからではないか。一つの情熱で結びついた共同体、同じかまの飯を食ってきた汗くさい絆(きずな)、そういったものに人々はもう飽き飽きしているのではないか。昨今、高校野球も人気がいまひとつだし、プロ野球のトレードはやたら頻繁だし、長野五輪で輝かしい栄冠を手にした清水選手の身辺について、マスコミがこしらえ上げようとしたお涙的な「家族愛物語」は、当人のカラッとしたさわやかな立ち居振る舞いの前で、いかにもつまらなく浮き上がって見えた。新しい関係性の感覚が要求される時代が進みつつあるのかもしれない。