小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:北海道新聞(夕刊)
「世紀末に考える」欄
(1998年5月26日付)

学校という制度

■根拠薄い「凶悪化」

  学校論議、教育論議というのは、たいてい次のような立ち上がり方をし、次のようなプロセスをたどる。たとえば「酒鬼薔薇」事件の情報があり、ほどなくしてナイフによる殺傷事件の情報があいつぐ。私たちは、マスメディアが流すこれらの情報を、「何が子どもをそうさせているのか」という共通の危機意識の連続線上で受け取り、その危機意識をとりあえす自らなだめるために、「学校教育のあり方」といった一般的解釈像に還元する。すると左右各方面から、「競争社会の重圧からもっと子どもを解放せよ」とか「少年法の改正や学校の監視体制の強化や心の教育の徹底をはかれ」とかいった議論がセンセーショナルに巻き起こる。

  だがこれらの成り行きは、二重、三重の意味においてナンセンスである。

  第一に、「酒鬼薔薇」事件は少年の特異性によるところの大きいめったにおこりえない事件であり、一連のナイフ騒動とは直接の関連がない。

  第二に、私たちは、ナイフ騒動の情報を通して、「最近の子どもはかつてないほど荒れており、すぐキレる」という固定したイメージを植えつけられるが、この情緒的反応にどれだけの実証的根拠があるのかきちんと調べた上で議論を構成しているのかどうか大いに疑問がある。一例をあげるなら、1965年における「少年」の殺人犯の検挙人員は、370人であるのに対し、95年ではわずか80人である(「犯罪白書」平成8年=96年版より。なお強姦・暴行も激減といってよい傾向。強盗はずっと下降線だったが、最近やや増加傾向)。この数字は、ことが殺人であることを思えば、少年の引き起こす凶悪犯罪そのものの実態にかなり近いとみなすべきで、そのかぎりでは、どちらかといえば少年は「静かになっている」というほうがあたっている。

■基盤は「適応不能」

  第三に、思春期の子どもは別に「いい子」だったのではなく、私たちの少年時代、とくに町中の中学などでは、恐喝、学校間の集団ぐるみでの「出入り」、ナイフによる脅しの類はざらだったという事実を忘れてはならない。ニュース種にならない水面下で、いくらでもそういうことはあったのだ。もちろん、昔は不良とそうでない子がはっきりと分かれていたが、今は「普通の子」がキレるという反論があろう。しかし「普通の子」と「普通でない子」との識別基準とはいったい何か。豊かな近代社会の到来と共に、「ハンパでない不良」が相対的に減少し、どこを見ても一見「普通の子」がほとんどになってしまったという風景の転倒を基盤として、「普通の子がキレるのは由々しき問題だ」という私たちの「驚き」感情が構成されるのだ。マスメディアは、その私たちの比較的静かな中流生活気分を「地」としてこそ、ことさら少年たちの「荒れ」に光を当てることができているのである。

  第四に、かりに容易に「キレる」少年が増えていると仮定しても、その原因を、直接の教育の関係者(親、教師、学校の指導のしかた)の「悪」や、競争社会、管理社会の重圧などに帰するのはまちがいである。というのも、親の意識はともかくとしても、競争的価値観や学力序列を絶対とみなす考え方や学校の集団管理主義的精神が備えていた聖なる権威は、国民が一体となって欧米並みの近代化を目指していた時代のほうが、現在よりもずっと強かったからだ。また庶民レベルで親の「しつけ教育」なるものが私たちの子ども時代にしっかり機能していたなどというのもノスタルジックな幻想にすぎない。

  もし今「普通のいい子」が突然キレるのが本当だとすれば、その基盤は、少子化と豊かな都市社会という家庭環境のなかで閉鎖的にデリケートにはぐくまれた子どもたちの、繊細で個人主義的な感性がはらむ「免疫不全」と、近代化において必要とされた学校システムそのものが近代完成後の現在においてあらわにしつつある「適応不能」との接触関係にしか求められない。そして大多数の思春期少年たちは、「学校」という旧来のシステムの枠組みのなかに一応は身を置きながら、この接触関係においてあらわれる「ずれ」を適当に使い分けて、大人たちを「シカト」して生きている。学校には通いながら授業にはほとんど耳を貸さず、友人間でてんでに小さな世界を作って遊びやファッションや性的関心について情報交換しあい、親に対しては「いい子」を演じながら、陰ではいじめや軽犯罪的なワルサに走ることのうちに「生きるノリ」を見いだしている。要するにすでに役割を終えた旧システムに押し込まれた子どもたちの、そのシステムに身を置くことの目的喪失感からくる「退屈と倦怠(けんたい)」の表出こそが、現在の「子ども」状況を普遍的に語っている。

■精神主義を追い出せ

  ところで問題は、「大人−子ども」関係の既成の枠組み了解が、近代完成後に特有の状況を背景として液状化しつつあるこうした現実に対して、大人たちがどう対応しうるかである。苦悩しているのは「一般的子ども」であるよりは、むしろかれらの管理責任を背負わなくてはならない「具体的大人」のほうなのだ。先に述べた「教育=悪者」説が、いわれなき「子ども=善」信仰に基づき、しかもそれを再生産する機能をしか果たしえていないとすれば、いつまでも「悪いのは教師か親か」といった不毛な議論にふけっているわけにはいかない。

  まず第一に着手しなくてはならないのは、まさにそうした「子ども=善」信仰や教師の熱意不足といった「金八」的精神主義によって現実を把握する文脈を私たちの意識から追い出すことである。そしてその上で、浮遊する思春期少年たちがそれぞれに大人への自覚を深められるような適切なシステムを、公教育空間を超えたところに多様なかたちでしつらえる知恵と工夫を出し合うことでなくてはならない。