小浜逸郎ライブラリ 小浜逸郎の過去の評論を掲載


掲載紙:北海道新聞
「批評指標」欄
(1998年5月22日付)

「殺人はなぜ、いけない」 不愉快な「問い」

  「なぜ人を殺してはならないのか」という問いが流行(はや)っているらしい。おおかたオウム事件や神戸事件やナイフ事件の衝撃の余韻を引きずっているのだろう。ある雑誌がこのタイトルで特集を組んでいたようだが、どうせ大した中身は書かれていないと思って開いても見なかった。そもそもこんな問いは流行(はや)らせるべき問いではない。論壇だの雑誌だのテレビだのの集合体がよってたかって話題に上らせたとて、せいぜい「大切な問題だからみんなで真剣に考えましょう」などと眉(まゆ)にしわ寄せてポーズをとった大人たちが、道徳的、人生論的御託(ごたく)を並べるのが関の山だ。

  はっきり言って、この流行は不愉快である。問いの発生源は、いずれ大してものなど考えていない「若者」あたりだろう。そして「若者」からそんな問いを誘発させているのは「社会風潮」を大げさに演出しているマスメディアである。「社会風潮」があぶくのように浮かび上がらせた問いなど、しょせんあぶくのように飽きられて消えていくにちがいない。

  端的な問いほど、それを発する個人がなぜそんな問いを発するのかについてどれだけの切実さを抱えているのかが逆に問われなくてはならない。答えようと試みるほうも同じである。重い実存と実存とが緊迫感を持って出会う地点でこそ、この種の問いは意味をもつ。人倫の枠内で生きて格別の不都合を感じない人間にとっては、もともとそんな問いは無用なので、本当に考えるに値する者だけが考えればよいのだ。

  大人は何も「若者」の甘ったれた挑発にうろたえることはない。私が「若者」からしかけられたら答えるだろう。君は君自身のどういう必然からその問いを発したのかまずそれを言ってみたまえ、その必然の度合いに従って私も君につき合うことにしようと。また問い返すだろう。君は道徳感情の由来と系譜について考え抜くだけの気力を本当に持っているかと。