だいぶ前のことになるが、ある講演会で「学校のような公開的な場での性教育など必要ないと思う」と発言した。なぜそう思うのかもきちんと説明したつもりだったのだが、一人の聴衆(小学校教師・女性)から反対意見があった。「やはり生命の誕生というこのすばらしい事実を子どもにきちんと伝えるということはとても大切なことで...」
私はこういう教科書的発言を聞かされるとすぐ大人げなく反応するたちで、とっさに「生命の誕生がそんなにすばらしい事実なんですか」と聞き返してしまった。一瞬相手は言葉につまり、私は座が白けるのを感じた。私の性急な変化球は、あるショックを与えたにはちがいないが、聴衆に少しはいい効果をもたらしたか、反感をあおる結果にしかならなかったか、正確なところはわからない。ただ、もう少し鷹揚(おうよう)な態度でじっくりもみほぐす戦術をとるべきだったかもしれない。
私が言いたかったことは次のようなことだ。「生命の誕生」が無条件ですばらしいなどということはありえない。たとえばここに、先天的に重度の障害をもった胎児を身ごもっていることを知って、出産について迷っている母親がいるとする。あるいはレイプされて身ごもった場合でもいい。そういう母親に対して、「生命の誕生はすばらしい」という無条件的な思想は、「あなたは絶対に生まなければならない」という抑圧的な倫理としてしか作用しないのではないか。また「この世は業苦に満ちている」という思想もあれば、「なぜ私は生を受けなくてはならなかったのか」という痛切な問いさえある。すでに所与としてある自分の生の苦悩を肯定する手だてとして「生きることはすばらしい」という納得を自らに与えることは人々の自由に属しているが、あらかじめ「生命の誕生はそれだけですばらしい」などという定式をお気軽に信じ込むべきではないのだ。