著者は、先に車内放送やエスカレーターのテープなど公的な騒音の「おせっかいと迷惑」にただ一人敢然と体当たりの闘いを挑んだ記録『うるさい日本の私』という衝撃的な書を著したドイツ哲学専攻の教授である。私は不勉強で、著者の専門分野での業績を知らないが、前著には痛快な刺激と日本人としての反省を味わわされた。
前著がいわば「実践編」としての面白さで読者を引き付けたのに対して、今度のこの本は、その延長上にあって、しかも「理想編」としての骨格を備えている。ヒット作の続編を書くとボルテージが下がるという結果になりやすいが、この本は、個人的な偏奇の表白として読まれがちだった前作の限界を超えて、<対話>を圧殺する日本社会の惰性的な伝統や慣行に対する批判から、より普遍的な文明論レベルに向かって架橋するという新しい達成が見られる。批判材料も、公的な騒音だけではなく、学生や大人たちの私語、公共地域に立てられた、誰も見ず守りもしない交通安全や美化を訴える醜悪な看板、退屈で無意味な会議に誰も異議を唱えない態度、歩行者が歩けないほどはみ出した違法駐輪など、より多岐に及んでいる。
著者によれば、日本の伝統的な会話や人間関係は、和を重んじ相互に傷つくことを避ける「思いやり」や「優しさ」の網を過度に張りめぐらせたところに成立しているため、他者どうしの対立が浮上することを極度に嫌い、その結果、真の<対話>が根づく可能性がほとんどない。だからこそ無意味なバカ放送やバカ看板やルール違反が公然とのさばり、一方で大多数の個人の黙認による自己決定・自己責任の回避と自分の言葉の喪失状況が蔓延するのだという。
日本人は、相手の言葉の「裏読み」の美学に頼りすぎる。もう少し、表現された言葉の表層そのものを大切にすべきではないか。しかしそれは主体を離れた単なる客観的態度をとることではない。真の「対話」とは、自分固有の状況、体験、実感、感受性を丸ごと引きずりながら、しかも客観的真理を求めて語り出すところに生まれる。
このように紹介すると、いかにもよくある欧米流の「強い個人主義」に立脚した提唱のように見えるが、著者は、欧米においてけっしてよい意味の対話が成立しているわけではないことを指摘し、欧米的な個人主義原理の極限が訴訟や銃や麻薬の充満した野蛮な社会に至り着いていることにも十分批判的な目を注いでいる。日本はその言語的な文化伝統の根深さからして、けっして欧米のようにはならない。せめてあと数%西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が実現するはずだというのが著者の主張である。
私は、この著者の提案をまともに聞き取るべきだと思う。日本流個人主義の伸長(それ自体は不可逆な歴史的必然だが)が他者への無関心を助長し、ルール感覚の麻痺を生んでいる。この提案には、そうした危機に対する警鐘という時代的な意義が含まれているからだ。