「酒鬼薔薇」少年に中学の卒業証書授与の判断が行われたそうだが、実に釈然としない思いだ。昨年6月に逮捕されているのだから、出席日数だけからいっても認められないはずだ。まして残虐な殺人を犯した罪によって医療少年院送致となった人間を卒業させるとは、どういう「人権感覚」だろう。
義務教育終了を認めることは、法的社会的人格としての責任を有する「市民」への重要なステップを提供したことを意味する。法を犯した者が罪の軽重に応じて、一定期間あるいは永久に市民権を剥奪(はくだつ)されるという筋を通すところにルール社会の共通了解の基盤があるはずなのに、こういうでたらめを黙認する人々にまともに「人権」を云々(うんぬん)する資格があるだろうか。
同じことを成人に置き直したら、何をやっていることになるか。死刑囚が、かつて所属していた企業内部で退職処分を被らないばかりか、昇進の辞令を受けるというにほぼ等しい。将来を考えてとか、法的処分と教育的処分は別だ、など言い分はいろいろあろう。しかしこういう処置を平然と容認する人々にかぎって、一方では「大人と子どもは対等だ」などと主張するのだから始末が悪い。
筆者は、社会的正義の何たるかを説教したくてこんなことを言うのではない。例の少年が背負った十字架は、他に代えがたい固有のものとして、実存的、文学的に掘り下げられなくてはならない。卒業を認めるなどというふぬけた社会的救済手段が、「人間存在」をいっそう安っぽくする効果しか果たさないことへのいら立ちを表明したいのだ。