伊丹十三、景山民夫、新井将敬と、ここのところ中高年男性の人生の中絶が目立つ。理由とか動機という物言いで切り取るなら、それぞれ「不可解」だったり、それなりに「納得」できたりするのかもしれないが、ここにはそういう個々の条件を超えて、この世に取りあえず残った私たちにも何かしら「わかってしまう哀(かな)しさ」のようなものが共通に漂っている。
戦後社会の時代思潮は、乱暴に言うなら、記号としての「弱者」をいかに救うかという課題に焦点を合わせるところに成り立ってきた。ところがこれら中高年男性の死が象徴しているのは、そうした課題をまさに課題として立てるべき立場にあった主体の側、つまり一見するところ「社会的な強者」として了解されてきた者たちの挫折である。
強者はまわりがそうみなすほど強者ではないのかもしれない。いや、むしろ強者と見えれば見えるほど、じつはその内部に空洞を蓄積させる運命を引きずっているという逆説が成り立つのかもしれない。
自ら中高年である筆者がこんなふうに書くと、「身につまされる思い」をわかってほしいと、さもしく同情を訴えるように響いてしまうが、筆者の真意はそこにはない。ここにまなざしを集めるのが正しい、とだれもが無反省に同調している時、時代や社会のもつ本当の弱点が盲点としてかすんでしまう危険について、とりあえず注意を促しておきたいだけである。そういうことはいつの世にもあるのだ。